論語の有名な言葉に「
論語を読んだことがない人でも、この言葉は聞いたことがあるのではないか。
克己し、復礼し、仁に至る。
最近、このことをあれこれ考えていた。
自分なりに結論を得たので記事にする。
顔淵の問い
「どうすれば仁になれるでしょうか」
孔子は、
「己に
と仰った。
入門当初の問答か
亜聖と呼ばれた顔淵である。孔門で仁を得た人だ。
その顔淵が仁を問うている。
仁を得た後、さらに問うことはないだろう。
したがって、これは顔淵が入門当初の問答であるとする見方もある。
服部宇之吉先生はそう解釈している。
私も、その解釈が良いと思う。
瑞々しく感じられるし、自然にも思える。
新たに入門してきた素直で聡明な若者に対して、聡明が素直に勝たぬよう、聡明を抑えるように「仁は己にあるのだ」と教えた。
孔子の指導方法から考えても、これが自然に思える。
克己とは
さて、克己。
克己とは、己に克つことである。
この「己」を深掘りすると克己がよくわかる。
己とは
根本先生は「己は十二支の巳であり、また身である」と教えている。
色々調べて見たが、「己と巳」を通用する出典が分からない。
大漢和辞典には「己と已と巳は全くの別物」と書いている。
また「巳と身」の通用も不明だ。
ただ、「己と身」は確かに通用する。
また大和言葉で解しても、こういう通用は十分に成り立つ。
例えば「カミ」は「神」「髪」「上」などを通用する。
「学ぶ」は「真似ぶ」。初学者が自由に学ぶことを否定し、謙虚に真似よと教える。これは日本的な伝統的な教育方法である。
「魂」と「霊」など、特に面白い。これは「魂(たましひ)」を「
古く、霊をヒと読んだ。これを知っておくと日本の伝統思想が色々見えてくる。
「むすひ(結び)」もそうだ。「
人と人が結び合う時、金銭など利害による結びつきならば嘘だ。
また「むすひ」は「
できちゃった婚を恥じる風潮が根強いのも、ここに起因する。
婚前でも明確な意志があり、霊と霊のむすひで子を設けるならば、それは産す霊であって極くめでたい。
しかし、何かの間違いで「図らずも」子ができてしまった場合、そこに霊と霊のむすひはない。大変な間違いを犯したと、多くの人が後悔する。
できちゃった婚とは、むすひがないことを後悔し、恥じるのである。
私は日本神話も随分勉強したが、
一昔前に、「美しい国ニッポン」という言葉が流行ったが、日本の美しさはこういうところにあると思う。
他にも色々あるが、かなり脱線した。また別の機会にお話しする。
ともかく、このような通用をもとに考えても「己と身」は通用する。
克己は克身なり
したがって、「克己」は「克身」でもある。
むしろ「克身」で考えたほうが分かりやすい。
「克己」すなわち「己に克つ」と考えると、「己」のイメージが漠然としているため分かりにくい。身体的にも、精神的にも、全てひっくるめて「己」のようなイメージがある。
一方、「身」はカラダである。精神の入れ物としての「身」である。
克己とは克身、身に克つことを意味する。
荘子などでは「無己」というが、これも同じ。「無身」ということだ。
欲望は身に起こる
本来、精神に私欲はない。私欲は身に起こる。
欲望を色々挙げてみるとよくわかる。
・美しいものを見たい→目に起こる欲望
・面白いことを聞きたい→耳に起こる欲望
・良いニオイを嗅ぎたい→鼻に起こる欲望
・美味しいものを味わいたい→舌に起こる欲望
・寒さや暑さを避けたい→皮膚に起こる欲望
・休みたい→身の疲れた部分に起こる欲望
といったように、欲望は全て身の上に起こる。
克身とは、この身の欲望に克つことを意味する。
身に克ち、身の欲望に動かされない人、荘子風には身の無い人、聖人とはこのような人をいう。
仁とは天稟の精神
身に欲望がなくなれば、精神だけが残る。
人のはじめは性もと善、本来天から
なぜ天稟の精神が曇ってしまうのか。身の欲に曇らされるからである。本来伸びるべき天稟の精神が発達を阻害される。
そこで、克己・克身で身の欲を去れば、精神が本来の天稟を存分に発揮してゆける。曇りなく発揮される天稟のまっさらな精神、これが仁である。
孔子は、仁は誰でも持っている、誰でも仁になれると仰った。それは全てこの意味であろう。
身の欲を去り、これまで欲望に埋もれていた仁を掬い上げること、「仁を得る」とはこのことだと私は思う。
復礼とは
孔子は顔淵に「克己し復礼すれば仁になれる」と教える。
「克己で仁になれる」とは言わずに「克己し復礼すれば仁になれる」と教えている。
私はこれをややこしく感じたが、今思えばそれほど難しいことでもない。
これは、やはり顔淵入門当初のことであろう。孔子の教え方がいかにも丁寧に思える。
「克己」と「復礼」の密接な関係にあることを教えた。
礼は自ら復るもの
「復礼」とは礼に復ること。礼を失ったところから、再び礼に復ることをいう。
礼というものは自ら実践するものである。
社会の中で礼儀を行うことを考えると、礼儀は社会から実践させられるものに思えるが、そうではない。そもそも、礼は仁から起こるものであって、ごく内面的な徳である。礼とは自分で
したがって、「復礼」「礼に復る」というのも、「自ら礼に復る」でなければならない。
自分がやるかどうかであって、人は関係ない。だから孔子は顔淵に、
仁を為すは己に由る、人に由らんや
(礼に復って仁をなすには、身自らの努力によってやることだ。人にやらされるものではない)
と仰った。
復礼はどうするか
素直な顔淵は、孔子の「克己せよ復礼せよ」の教えをそのまま受け入れる。受け入れた上でさらに問うた。
「具体的にはどうすればよいでしょうか」
これはつまり、
「身に克って欲望を去り、礼に復るには、具体的にどうすればよいでしょうか」
との問いである。
身に克つべきことは分かった、それで礼に復ることも分かった。
しかし、礼に復るには具体的にどうすればよいかわかりませぬ、との問いである。
孔子は、以下のように具体的・実践的に教える。
- 礼儀に外れたものは視るな
- 礼儀に外れたことは聞くな
- 礼儀に外れたことは言うな
- 礼儀に外れた所作はするな
礼儀に外れたものを視る、聞く、言う、礼儀に外れた所作をする。
これは、身に起こった欲望によって礼に外れるのである。
そこから礼儀に復るのが復礼である。
身の欲望から、礼儀に外れたものを視たり聞いたりしていた。天稟の精神、仁を曇らせた。
それを視ず聴かずに改め、不断の心がけとする。
視ても目を留めない、聞いても承知しない。これも復礼である。
礼で防ぐ
礼と防は通用する場合がある。どちらも「おきて」「法」「そなえ」といった意味を持つ。
復礼は、特に防の意味が大きい。悪事や無礼を働かないように礼で防ぐ。つまり予防の意味である。
礼による防と、法による防は違う。法律にも抑制・予防効果が期待できるが、礼に比べると効果は薄い。
法律で縛れば、人民は『法律の範囲内なら大丈夫』と考え、法律違反でなければ悪事も恥じなくなる。何でもやる。しかし礼で治めるならば、人民は恥を知って正しくあるように心がける。
このように為政篇で孔子が仰ったのも、礼の予防効果にほかならない。
法律は、悪事をなしたものを戒め、さらなる悪行を防ぐ意味が大きい。礼はその前で防ぐ。
身の欲望で礼に外れた。
礼に復るよう努める。さらに、再び欲や邪が出るのをあらかじめ防ぐ。
つまり、
克己の失敗
→非礼に陥る
→礼に復る(身に克つ)
→仁を得る
という流れである。
克己、復礼、そして仁とは、こういうことである。
孔門の気骨
これを聞いて、顔淵は
「私は不敏ですが、ぜひ先生の仰ることを守っていきましょう」
と決意された。ひょっとすると、これが顔子の出発点だったのかもしれない、などと考えると武者震いがする。
克己復礼は、仁に至るための具体的手段といえる。
実践の手引きも十分である。
そして、非常に単純である。
非礼は視るな、聴くな、言うな。所作も非礼はいかぬ。
復礼の厳しさ
しかし、単純だから簡単というわけではない。
ほとんどの人が、このような教えとは無縁で生きている。
非礼に馴れてしまっている。
現代社会は、非礼で満ち溢れている。
ツイッターも、非礼で満ち溢れている。
一時期、非礼を視ず、聴かず、言わずのためにツイッターを辞めようかと本気で考えたし、今も辞めようかと思うのはこのためである。
非礼にどっぷりと浸かり、我が身の欲を引き起こして非礼に陥る。
そして仁から遠ざかっているのではないかと、怖くなる。
非礼から目を背けぬ
もっとも、克己復礼についてじっくり考えたことで、このような気分はかなり和らいだ。
非礼は視ても目を留めぬ、非礼は聞いても承知せぬ、これも復礼である。
全く非礼のない、いわば無菌空間で徳を養うのが正しいのかどうか。
非礼だらけの空間でこそ養える徳もあるのではないか。
孔子の生きた時代も、非礼にあふれていた。親子や君臣で殺し合う時代であった。
現代日本など比較にならないくらい、非礼にあふれた時代といえる。
孔子やお弟子たちは、そんな時代に、非礼から目を背けることなく道を学んだ。
非礼から目を背けて「非礼を視ず」ではない。非礼を直視しながら「非礼を視ず」であった。
私は、孔子の仰った「克己復礼」の四文字に、孔門の気骨を感じる。
先日ツイッターで、学問上の気づきで大変感動した、とつぶやいた。
「克己復礼」に孔門の気骨を知り、克己復礼とはこんなに素晴らしい教えであったか、ようやく気づいた、孔子の教えに少し近づいたかもしれない、そんな風に思い恍惚とした。
ツイッターの真価とは
私も、気骨のある学問をしたい。
結局、礼は自ら履むものであるし、自分次第だ。
非礼に満ち溢れている空間でも、礼に適った空間でも、そこで礼を履むのは自分次第である。
礼を失い、仁から遠ざかるのをツイッターのせいにするのは間違いではないか。
それは結局、自分の至らなさだと思うのだ。
ただし、非常に辛いのも事実。
非礼にまみれた場所で、非礼を視ず聴かず言わず、これはとても辛い。
吐き気を催すことも多い。それを飲みこんでゆくのが辛い。
この辛さは、復礼の厳しさだと思って耐えるだけだ。
そのように考えると、ツイッターも価値がある。
それ以上の価値はない。