周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

革命の是非

中国の歴史には度々「革命」ということがある。

孔子は革命についてどうお考えであったか。

論語には、革命について明確に述べた文章がない。少なくとも、孟子ほどにはっきりと、「徳がなく、民を苦しめるような者は伐ってよい」といったことは仰っていない。

 

ブログで何度か書いたことだが、孔子は革命を肯定しなかった。否定的であったともいえないが、肯定的ではなかったと私は思う。

これまで、そう思う理由を詳しく述べたことがなかったので、ここで簡単にまとめておきたい。

 

 

1.論語八佾篇に曰く

論語八佾第三に、こうある。

子、韶を謂ふ、美を尽くせり、又善を尽くせり。武を謂ふ、美を尽くせり、未だ善を尽くさず。

 

1-1.韶とは

韶は、舜の楽のこと。古来、中国では音楽が非常に重んじられ、孔子も度々音楽について言及している。

孔子は韶が大変お好きであった。斉に滞在なされた折、韶の楽を聞かれた。それにいたく感動した。

 

元々孔子は韶についてご存知であった。

孔子の生国は魯、魯の祖は周公旦。周公旦は非常に功績が大きかったため、天子より礼楽を賜った。この中に韶の楽もあったから、孔子はすでにご存知であった。

しかし、斉で聞いた韶は、それまで知っていたものよりずっと素晴らしかった。だから三ヶ月間も聞き入って、時に肉の味さえ忘れる日もあった。

 

韶は舜の楽、周が天下を取った後、舜の子孫が封じられて陳という国ができた。陳は韶の本家本元である。

孔子が生まれるより150年ほど前、斉でいえば桓公の頃、陳の公子である陳完が斉に亡命した。陳完は、先祖代々伝わってきた韶の楽をそのまま伝えた。

孔子が斉で聞いたのもこれである。陳より直接伝えられた韶は、魯で聞くものよりずっと素晴らしかった。

 

1-2.舜は善美を尽くす

孔子が仰るには、韶の楽は美しく、また善を尽くしている。

美しいというのは、楽器の音や曲調、声などに邪悪なところが少しもなく、ただただ美しいのである。

また、楽には今でいう歌詞がある。韶ならば、舜のご一代の治世や道徳について歌う。それがいかにも善を尽くしている。

 

1-3.武王は善を尽くさず

では、武王の楽はどうか。武王の楽については、礼記の楽記篇に書いてある。

武王の音楽も美しさの点では舜に劣らず、邪なところもなかった。しかし、善を尽くしたものではない。善において足らないところがある。

なぜ孔子は、武王が善を尽くさぬと仰ったか。武王の楽では、殷を討伐するくだりについても歌う。臣の立場で以て君を伐つことは乱であって、善とは言えない。ゆえに善を尽くさずと仰った。

 

2.湯王、桀を伐つの乱

書経の湯誓篇に、「敢へて行(邪)に乱を称(挙)ぐるに非ず」とある。湯王が桀を伐つ際の言葉である。

 

2-1.天道天理とは

儒教では、「順」ということを非常に重んじる。順とは、道徳から外れないこと。もっといえば、天道天理に適うところを「順」という。道徳から外れ、天道天理に背くのを「逆」という。

天地の徳とは何か。万物を慈しみ育む、生々の徳である。人間もこの徳を稟けて生まれる。他を慈しみ育む徳を持って生まれる。これを仁という。

人においては仁が徳の本体。これが外に表れるのを愛という。仁は体、愛は用。

仁が「筆」ならば、愛は「文字を書くこと」である。仁がなければ愛もない。また、仁があっても愛がなければ意味がない。

仁があって愛もある、それを仁者という。

 

2-2.仁と五倫

仁があれば五倫は整う。

五倫とは、父子・君臣・夫婦・兄弟・朋友の五つ。

親と子が互いに愛情を以て接する。君臣互いに礼を尽くす。夫婦・兄弟・朋友の間も大体同じい。睦まじくするが重要である。

 

親子が互いに愛情を以て接する。子から親へは孝行をする。孝に基づき愛情があって、それが行い(孝行)になる。孝と仁を一理とする所以である。

君臣が互いに礼儀を以て接する。礼は仁より発するものである。義は礼より遷る。臣が君に礼を尽くすことは、そのまま忠義を尽くすことになる。

 

2-3.湯王の自覚

湯王は、臣の立場を以て君を伐った。これは順と逆とでいえばやはり逆である。ならば湯王は礼儀を知らず、仁でもなかったか。

 

全体でみると、仁であり礼もあったに違いない。

桀という暴君に誰もが困窮し、三千の諸侯が湯王を担いだものだから、已むに已まれず伐った。全体でみれば、大きな仁によってそれを為したのである。仁があれば礼もある。礼があれば義もある。

湯王は好んで桀を伐ったのではないが、それはそれとして、やはり臣が君を伐つは逆であって乱である。

その自覚があったから、湯王も「敢へて行に乱を称ぐるに非ず」と言った。

つまり、「臣が君を伐つのだから乱であるが、邪なる心からそうするのではない」と。

 

また、桀を滅ぼした後、湯王は「徳に慚ずるあり」とも言っている。

少々後ろめたいどころではない。臣でありながら君を伐ったこと、理由はどうあれ乱をなしたこと、これは不徳であり慚愧に堪えぬ。

 

3.武王、紂を伐つの乱

武王はどうか。

紂のために天下が大難に見舞われ、もうどうしようもないところまで来た。諸侯は武王に「何とか君(紂)を伐っていただきたい」と迫った。それで已むに已まれず伐った。

大体湯王の場合と同じわけで、武王は好んで紂を伐ち、天下を取ったのではない。

 

3-1.忠臣・文王

武王の御父上である文王は、極く忠義に篤い人であった。

天下の三分の二を有し、周の力は非常に強かったが、反発する諸侯を抑えて殷に忠を尽くした。その間、文王は紂の疑いを受けて殺されそうになったこともあるが、忠義を以て貫いた。滅びゆく殷を支えて已まなかった。

 

中庸に曰く、夫れ孝は志を継ぐ者なり。

武王は、文王の志を継ぐことを考えたであろう。殷に取って代わる、これは大きな変化であって、悪くすれば大乱を招く。殷を補佐して天下泰平になるなら、それに越したことはない。

しかし、已むに已まれず君を伐たねばならぬことになった。これでは文王の志と違うことになり、一見すると不孝である。

 

3-2.武王はなぜ起ったか

文王は殷を補佐することで天下泰平を目指した。文王の真の志は天下泰平である。

武王もしばらくは諸侯を抑えた。しかし抑えが利かなくなってきた。武王が起たぬとなれば、別の者が起って乱を為すであろう。その者に徳がなければ、諸侯の連合も有名無実、烏合の衆となる。

命が衰えたとはいえ殷にも軍隊がある。史記の周本紀には「帝紂、武王の来れるを聞き、亦、兵七十万人を発して武王を距ぐ」とある。それが諸侯と激しく争うことになる。

どちらが勝っても人民はひどく苦しむ。殷が勝てば粛清の嵐が吹き荒れる。諸侯が勝った場合にも、まとめる人間がいないのだから権力闘争などを引き起こして大変なことになる。

 

易経・沢火革の卦、これは革命(を含む大きな改革)を行う道を説く。その九四に曰く、

命を改むるの吉なるは、志を信ずればなり。

革命を行って、命を改める。従来の王朝での命令、政治というものを皆作り改める。それで間違いが起きない、吉である。

なぜ間違いが起きないか。それは決起を促した人々が、武王の志を信じているからである。志は徳に応ずる。武王の徳を信じているから、「私利私欲で都合よく命を改めているのではないか」などと疑う者がない。政治や命令が悉く改められても誰も不安にならない。皆安心して従うから上手くいく。吉である。

 

徳のある武王でなければ、革命はどうしてもうまくいかない。我が立たねば、どう転んでも天下に害をなす。

紂を伐つのは、君臣の義から言えば不義である。しかし起たねば天下大乱に陥る。それでは父に対して不孝になる。

そこで、どちらを取るか。

武王は伐つ方を取った。

 

3-3.武王の大孝

周本紀にはこうある。

紂の師、衆しと雖も皆戦ふ心無く、心、武王の亟かに入来らんことを欲す。紂の師、皆、兵を倒まにして以て戦ひ、以て武王を開く。紂の兵、皆崩れて紂に畔く。

紂の軍隊は七十万の大軍だったが、武王が起ったことで皆戦意を喪失した。徳のない紂にはもう懲り懲りで、徳のある武王に早く来てほしいと願った。

紂の兵は武器を逆さまにした。武器を武王に向けるのではなく紂に向けた。

進軍を阻んでいた兵が武器を逆さまにしたから、武王が進軍する道が簡単に開けた。武王の軍と、紂を裏切った軍とが一緒になって勢いを増した。まだ紂に叛いていなかった兵も、雪崩を打って紂に叛いた。

 

徳のある武王が起ったから、紂の軍勢も武王に加担した。武王の徳に靡いたのである。

武王以外の諸侯が起っていたら、このようにうまく進まず、天下は大乱に陥ったかもしれない。

徳を以て天下を泰平に導いたのだから、君に背いたことが却って文王の志を継ぐことになり、大孝となった。

故に孔子曰く、「武王は達孝なるかな」。

 

3-4.武王の自覚

とはいえ、臣が君を伐つは乱である。この一点だけは、どう見たってやはり乱であり、不善であることを免れない。

論語の泰伯篇に武王の言葉が出ている。曰く、

予に乱臣十人あり。

武王が十人の臣を率いて紂を伐った。それを「乱臣」といった。やはり武王自身、乱であることを自覚していたのだ。

 

臣の立場で君を伐った武王は、君臣の義で考えると逆臣・乱臣である。

武王の家臣は、紂王からみれば陪臣(臣の臣)である。乱臣である武王に与して乱を起こすのだから、これもまた乱臣である。

武王も、この十人の家臣も才徳優れた人であるけれども、実際の行いは乱であることを免れない。それを知っていたから、武王は自分自身を乱臣とし、家臣もまた乱臣であるとした。

 

4.孟子の論

孟子は湯武放伐論を立てた人であり、革命を肯定したといって良い。

その論ずるところは非常に激しく、私はあまり好きでないが、同時に慎重さも感じる。

湯王武王の革命を「乱である」と非難することはないにしても、臣の立場で兵を挙げた事実に対していささかの危うさを感じていたように思われる。

 

4-1.「討つ」と「伐つ」

孟子・梁恵王章句に曰く、

湯、桀を放ち、武王、紂を伐つ。

「討伐」というが、これには「討つ」と「伐つ」とある。

「討つ」は、天子の立場からいう。天子に叛く者を討伐することで、主に膺懲、上が下を誅する意味である。

「伐つ」は、諸侯の立場からいう。主に天子の命を受けて、諸侯が敵国や夷狄を討伐することをいう。

 

ゆえに告子章句に曰く、

天子は討じて伐せず、諸侯は伐して討せず。

天子が叛く者を討伐する、これは「討」であって「伐」ではない。

諸侯が天子の命によって討伐する、これは「伐」であって「討」ではない。

天子の命がなければ、諸侯が討伐を行うことはない。

然るに、春秋の覇者は諸侯の立場でありながら、天子の命の有無に関係なく、他の諸侯を率いて盛んに討伐を行った。孟子はこれを「五覇は罪人なり」と批判している。

 

孟子は「武王、紂を伐つ」と書いた。

紂を攻めた時、まだ武王は一諸侯である。「諸侯は伐して討せず」で、武王が兵を用いるとすれば「(天子の命で)伐つ」場合に限られる。諸侯の立場で「討つ」ということはありえない。

諸侯である武王に、天子である紂の方から「天子を伐て」という命が下るはずはない。

となると、武王は勝手に兵を起こしたのであって、本来「伐つ」とはいわれない。

 

4-2.紂を罰(伐)する

書経の牧誓に曰く、

今予発は、惟れ天の罰を恭行す。

発は武王の諱。武王が諸侯を前にして誓いを立てて云うには、「自分は天の罰を奉じて、紂を伐つのである」と。

伐は罰に通じる。聲罪致討曰伐、罪を明らかにして討つことを伐つという。

紂の不徳に対し、天が罰を下される。自分はそれを奉じて紂を伐つのであると、こういうわけである。

 

古代中国では、徳のある者が天の命によって天子の位に就いた。徳を失った者はすでに天子ではなく、単なる賊となる。天の命が中心である。

その天を、武王は奉じたのである。天の命を奉ずることと、天子の命を奉ずることは畢竟同じい。あくまでも一諸侯である武王が「討つ」ということはできないが、天の命によって「伐つ」ならば宜しい。

これが孟子の考え方である。「諸侯」が、天の命によって「賊」を「伐つ」。

 

4-3.革命は悔いを免れぬ

易の革の卦に曰く、

革は、己の日乃ち孚あり。元に亨る、貞しきに利し。悔亡ぶ。

己の日は、五行における土である。土は仁義礼智信でいえば信、まこと、孚にあたる。

大いなる改革、革命というものは、己の日すなわち時期が熟し、誠実な心も十分に備わって、今こそ革めるべしという段になってはじめて取り組むべきである。

そうすれば元に亨る、大いに通る。革命の道、疲弊した世の中を大きく変えようという志が、すこぶるよく通じる。

このとき貞しきに利、改革が行き過ぎないように程よき所を図り、あくまでも孚を失わず、貞なる正しきところを守らなければならない。

 

そうすれば悔い亡ぶ。

大なる改革をする上では、やりすぎ・行き過ぎに陥りやすい。改革の邪魔になるものを伐つこともある。

その結果、湯王の「徳に慚ずるあり」、武王の「善を尽くさず」のように、恥ずべきこと、悔いるところが出てくる。

革命というものの性質からして、どうしても悔いは免れないけれども、孚を失わず、どこまでも正しく革命を遂行する。その結果、色々なことがうまく運び、天下泰平になり、万民に幸福が訪れる。そうなれば、悔いも徐々に亡んでゆく。

 

孚を失えば、革命がうまく運んで行かない。

孚は中正、中庸に通じる。孚がなければ程よき所を得ず、行き届かずに失敗する、あるいは行き過ぎて失敗する。革命であれば、大抵は行き過ぎる。前の時代の良いものをぶち壊したり、新たに悪い法律を立てたり、良い政策でも性急にやれば禍根を残すし、まあ色々に行き過ぎる。

これは「暴戻」である。暴虐なる天子を「もはや賊」として、正しい動機で伐ったとしても、孚を失えば「暴戻」に行きつく。

これでは悔いが亡ぶこともない。次から次へと悔いが生じ、重なってゆく。

 

4-4.孟子の偉さ

孟子といえども、武王が紂を倒すことを「討つ」とは書けなかった。

孟子が「徳を失った天子は賊に過ぎない」と断言したところはまことに激しいが、「伐」の一字に慎重さを感じる。

 

あくまでも「伐」であって「討」ではない。なぜか。臣の立場で兵を起こすからである。相手は賊とみなすが、決して上から下を討つのではない。

「討つ」と書けば、臣でありながら天子の立場を以て攻めることになり、僭称になる。それこそ逆であり乱であって、革命の出発点で「孚がない」ということになってしまう。

どうしても「伐つ」と書かなければ成り立たない。湯武放伐論を立てるにあたり、あくまでも「伐つ」と書いた。ここに孟子の節がある。偉い人である。

 

現代においても、孟子を学ぶ人の中には革命を単純に肯定する人が多い。剛に過ぎて、孔子の教えから遠ざかってしまう人が多いように思う。

私は孟子の論に節義を見た。それが孟子の真意を得たものかどうか、今は分からない。しかし大きく誤った見方とは思わない。

孟子を学ぶにあたり、このような点を特に見落とすことなく、丁寧に汲んでいきたいと思う。

 

5.孔子は革命を肯定せず

湯王も武王も、自身の行いが「乱」であることを確かに自覚していた。武王に至っては、自身と家臣を「乱臣」と称した。

 

何事にせよ、功の中には罪があるものだし、罪の中にも功があるものだ。

功績が大きいほど、その過程で不善を為すことも多くなってくる。湯王や武王ほどの人物でもそうであるから、一般の人なら猶更である。

功が大きい場合、相対的に小さな不善を取るに足らないとすることもできるが、不善の事実が消えてなくなるわけではない。

管仲にしても、孔子はその功績を絶賛しているが、同時に奢侈や非礼を指摘している。

 

5-1.湯武を批判した黄生

易は革命を否定していない。孟子も革命を肯定している。それ以降、多くの儒者が革命に肯定的であったが、革命に批判的な学者もいた。

漢の頃に黄生という人がいる。この人は儒者ではなく老荘系の人。気骨のある学者で、湯王・武王の行いを痛烈に批判している。

以下、黄生の論。

 

古くなって破れたからといって、冠はあくまでも冠である。頭にかぶるべきものである。新しく良い靴だからといって、靴はあくまでも靴である。足に履くものである。

古く悪い冠でも、冠は頭にかぶる。新しく良い靴でも、靴は足に履く。古くなったからといって、冠を履いて歩けるものではないし、新しく良い靴だからと言って、靴を頭にかぶるわけにはいかない。全ての物には相応しい役割というものがある。

 

これは、桀紂を古く悪い冠に、湯武を新しく良い靴に例えたのである。桀紂は無道の君だが、やはり君であるには違いない。湯武は聖人だが、やはり臣に違いない。

上(頭・君)と下(足・臣)の守るべき分がある。冠はどこまでも冠、君はどこまでも君であるべきであり、靴はどこまでも靴、臣はどこまでも臣であるべきだ。

 

君に悪いところがあれば、それを諫め、過ちを正すのが臣の在り方である。

しかし君が無道で、諫めても過ちを正すことができない。ならばもう叛いてしまえ、君の過ちに依って誅してしまえという。これは臣の在り方として正しくない。

なおかつ、君を弑してその位に就いたのだから、これは簒奪である。湯武は逆賊乱臣である。

 

これが黄生の論である。ちょっと厳しすぎるとも思うが、湯王武王も自覚していた罪を徹底的に追求するならば、このようなことが確かに言える。間違いではない。

 

5-2.湯王の危惧

後世、湯武放伐は革命の理想的なものとして肯定された。しかし臣が君を伐つは乱、順と逆とでいえばやはり逆である。湯王武王についても、乱を為した事実は事実としてみるべきである。

ここを見落として、湯武放伐を全面的に肯定してしまうと、忠というものが曖昧になる。忠と孝に差が出てしまって、孝経には嘘が書いてあることになってしまう。

 

孔子が「武王の楽は善を尽くさず」と仰ったのも、武王が臣の立場で以て君を伐ったこと、乱であったことの一点による。

湯王・武王の乱が結果的に天下を救ったことは間違いない。しかしこれが後々、多くの問題を残したことも否めない。

故に湯王曰く、

来世われを以て口実を為さんことを恐る。

(将来、自分の行いにかこつけて、乱を為す者が現れるのではないか。それを恐れている)

その後、湯王の危惧した通りになった。湯王武王の事跡を受けて、「徳無き主君は伐ってよし」ということが野心家の理屈のようになってしまった。

また現代においても、少し孟子をかじった者が、政治家の不祥事などを見ると「あんな者は伐つべし」などと、簡単に口にする。馬鹿なことだ。

 

後世野心家の革命は、湯武革命のように穏健に運ぶことは少なく、大抵悲惨なものになった。

中国で革命と言えば、多くの血が流れる。族誅といって、罪を犯した本人(湯武革命でいえば桀や紂)だけではなく、その一族郎党を執拗に殺す。

族誅の範囲は色々だが、少なくとも三族、多くは九族、ひどい場合には十族皆殺しに遭う。

革命を許せば皆殺しにされるのだから、旧政権の方も必死である。革命勢力を激しく弾圧し、抵抗し、上下の争いが激烈になって多くの血が流れる。

とても、湯武革命のようなことにはならない。

 

5-3.理想的革命は悲惨ではない

湯武革命は悲惨ではなかった。

湯王は「桀を南巣に放つ」とある。これは、湯王が桀の勢力を徹底的に叩いて、桀を南巣に放逐したというのではない。戦に敗れた桀が南巣に逃げ込んだのである。湯王はそれを追わずに軍を引き上げた。その後、桀は死んで夏が亡んだ。

無道であったから、桀のほうで勝手に破れて、勝手に逃げて、勝手に死んだのである。湯王が執拗に攻めたとか、桀を捕らえて首を刎ねたとか、ましてや夏に縁故あるものを皆殺しにしたとか、そんな悲惨なことはなかった。

 

武王も同じ。紂の勢力が武王に寝返った。武王は紂の大軍を難なく打ち破った。敗れた紂は逃げて、最期は焼身自殺した。

武王は、寝返った兵や無抵抗な兵を攻めるようなことをしなかった。紂の党類党派を皆殺しにするようなこともなかった。無道のために、紂の方で勝手に敗れ、勝手に逃げ、勝手に死んだのである。

 

史記の周本紀には、武王は紂の焼死体に矢を三発射込み、首を刎ね、その首を旗に掲げたとある。これを見ると、武王の革命は陰惨である。

明の大儒である方孝孺は、これを嘘と断言している。私も嘘であろうと思う。武王の革命に、このような陰惨さはなかったと思う。

 

方孝孺曰く、

吾意ふに、武王、紂の死せるを見るや、踊りて之を哭せずんば、則ち商の群臣に命じて、礼を以て之を葬らしめしならん。豈に復た余怒の其既に死せる身に及ぶあらん。

此れ戦国薄夫の妄言、斉東野人の語にして武王の事に非じ。

武王は好んで乱を為したのではない。紂を支えてどうにかなるなら、文王の志を継いでそうしたであろう。武王もまた忠臣であったが、已むに已まれず天下のために乱を為した。

そんな武王が紂の焼死体を見たらどう思うか。悲しみのあまり、身を踊らせて慟哭するであろう。そうでなくとも、紂の旧臣に命じて、礼を以て手厚く葬らせたであろう。

かつて忠を尽くした君の死体を、怒りに任せて射たり斬ったりするようなことがあろうはずがない。

これは戦国薄夫、義戦なしと言われた戦国時代に染まった、道理の解らぬ歴史家(=司馬遷)の妄言である。武王はそんな人ではない。

 

5-4.湯武は偉大なる逆臣

方孝孺は、司馬遷を「戦国薄夫」と痛罵した。司馬遷が武王の革命を陰惨に描き、武王の徳を曇らせ、それが「革命とは陰惨なもの」、延いては「多くの血を流しても無道な君は伐つべし」となったとすれば、司馬遷の書き方はまずかったといえる。

 

その点、孔子は極めて慎み深かった。ご自身の発言が人に与える影響を考え、非常に慎重に発言なされた。誤解を与えないことはもちろん、聞く人に偏った思想を植え付けることのないように、注意深く教えを立てた。

武王を「善を尽くさず」と評したところにも、その慎みが現れている。湯王・武王が天下を救った功績を認めつつも、それが一面において乱であったことを見落とさず、革命を善しとするようなことは仰らなかった。

 

やはり、革命などというものは、無ければそれが一番良いのである。革命が大乱を招くことは多い。

革命はあくまでも権道である。司馬法にもある通り、中人以下に権道はやれぬ。聖人君子であって、初めて権道を用いることができる。中人以下が権道に手を出せば必ず乱を招く。

湯王や武王が起たず、諸侯の不満が爆発すれば天下に大乱を招く。そういう場合には、徳のある者があえて乱を為し、革命に踏み切ることもある。

 

そもそも権道とは、我が身を悪い所に陥れて、天下のために働くことをいう。

司馬法が戦争を権道とするのも、戦は本来為すべきものではないからだ。仁は生成の徳である。戦は破壊を伴うから仁とは反対向き、つまり不仁であることを免れない。

戦を起こす者は、どうしても我が身を「不仁者」に落とすこととなる。しかし義においては極く正しい。我が身を不仁に陥れて、天下のためにあえて戦う。

 

革命も同じ。我が身を逆臣の立場に陥れて乱を為し、天下を救う。一旦は道に外れて結果として道に適うが権道。

我が君に徳なし、もはや賊と変わらぬ。天下を救うために、我が身を逆臣に落して君を伐つ。我が身を逆臣に陥れずに革命は為せない。逆臣でなければ乱を起こすこともないからだ。乱を起こし革命を為すには逆臣になるを免れない。

これを「我が君に徳なし。ゆえに我が起って君を討つ。あくまでも正義であって逆や乱ではない」と考えると悪い。我が身を落とさずに権道を図るは邪である。

我が身を棄てず落とさず、正当化している。これは覇道の類であって、王道ではない。聖人君子の所業ではない。

 

湯王武王は、天下のために我が身を棄て、天下のために逆臣に落ちたから偉いのである。湯王武王が乱を為したことを正当化して「逆臣ではない」と評するなら、それは正しい評価ではない。

湯王武王を聖王として評さず、覇者として評することになる。せいぜい斉の桓公や晋の文公と同レベルにみなすことになる。これではどう考えてもおかしい。私はそう思う。

 

5-5.文王は善美を尽くした

とはいえ革命は非常手段であり、已むに已まれず踏み切ることであって、避けるに越したことはない。君が暗愚でも乱暴でも、臣が支えて平和を保てるならば、それが一番良いに違いない。

それを目指したのが文王であった。

文王は、徳のない紂に忠義を尽くした。孟子に云わせれば、文王の時も紂は賊であったが、文王は「賊だから伐ってよい」とは考えなかった。

文王は美を尽くし善を尽くしたといえる。武王よりも文王を重んじたことが、孔子の言葉の端々に感じられる。

 

5-6.易は革命をよろこばず

革命は権道であってよろこぶべきものではない。

易の思想はそうである。

 

易には、革命の道を説く卦がある。天に順い人に応じ、革命を為すことを否定していない。

しかし、これは已むを得ない場合に限ってのことで、本来はやはりよくないとする。

六十四卦の配列は、沢火革の次に火風鼎、その次に震為雷。

火風鼎は、革命を行った後に天下万民を養う道を説く。

そして震為雷、これは激しい変化に処する道を説く。

 

革命という大きな変化が起こる。その後、鼎の道を以て天下を治める。しかし、そもそも革命というもの自体が動乱をはらんでいる。

旧政権の者が乱を起こすかもしれないし、他にも不満を抱いている人がいるかもしれない。革命の理想を解することなく、「臣が君を討ってよし」と恣意的に解する人間が出てくると、革命がたびたび起こるかもしれない。そうなれば天下は不幸になる。

 

そこで、火風鼎から震為雷に移るにあたり、序卦伝に曰く、

器をつかさどる者は長子に若くは莫し。故に之を受くるに震を以てす。

器は鼎、鼎は天子の宝物。日本で言えば三種の神器にあたる。それを扱うものは、天子の御長男である皇太子に限る。

天子から皇太子へ、さらにその皇太子へと、連綿と受け継ぐべきものである。

 

しかし革命によって王朝が代わった。天子が代わって、鼎を主る者も代わった。

この後、鼎を主る者が再び変わってはならない。革命がしばしば起こるようではいけない。

今回革命が起こり、鼎を主る者が代わったのは已むを得ざることであって、この後、鼎を主る者が代わることなく、天下泰平の世がいつまでも続くようでなければならない。

 

そこで、長子が鼎を主る。天子の御長男である皇太子が主る。天子の位は皇太子が嗣ぐ。

つまり「器を主る者は長子に若くは莫し」とは、「皇統一系に若くは莫し」の意味である。

あくまでも皇統一系、これで天下を治める。革命が起こり、制度も組織も大いに変革したけれども、「皇統一系」という点だけは変えてはならない。

そうすることで、革命という異常事態が常態化せず、天下が安定する。

 

震為雷の卦をみると、革命をよろこばない思想がよくわかる。

革命を大いに肯定し、称賛するならば、しばしば革命が起こって天下が乱れるのを喜ぶようなもので、儒教の理想からは程遠い。

論語だけではなく、易を読んでも、孔子は革命に肯定的ではなかった、と私は思う。