論語里仁篇にこうある。
仁者は能く人を
好 みし、能く人を悪 む。(仁者は好むべき人を好み、悪むべき人を悪む)
この章句については以前もブログに書いたが、あれは考えが足らなかった。
天というものをよく分からずに書いたから、つまらない内容であったと思う。
今も天が分かったとは言えないが、以前よりは分かるようになった。
天についてよく考えながら、再び書いてみたいと思う。
天を考える
この章句もそうだが、孔夫子の言葉は短い。優れた人には分かるのだろうが、大抵の人には分からない。私にも分からない。
この言葉も、何でもない言葉に思える。しかしこれはとても大きい言葉である。天というものが分からなければ、この大きさが分からないのである。大きいものが大きく見えないから、つかみどころがなく、何でもない言葉に感じる。
インドの寓話に「群盲象を評す」というのがあるが、それと同じことである。
天は大きい。この章句もそれだけ大きく、容易に分からない。孔夫子の言葉は油断がならない。
何でもそうだが、言葉を尽くすほど小さくなる。
天は大きい。「天」の一文字の意味は極めて大きい。
言葉を尽くして天の一文字を解説すると、それだけ小さくなる。それで良いこともあるが、小さすぎて分からなくなることも多い。天を百万文字で解説すれば、おそらく小さすぎて分からなくなる。
目の前にハエが一匹飛んでいるとする。ここにも天はある。しかしあまりにも小さい存在であるし、ハエを見て天を知るということは中々難しい。この塩梅が難しい。
しかし大きいままでは分からないのだから、自分なりに小さくしたり薄くしたり、色々勉強してみるほかない。その後に約すると理解が進む。
小を積んで大を成せば、やがて天のことも、孔夫子の大きな言葉の意味も少しずつわかるようになっていくのだろう。
儒学とはそういうものである。いや学問は何でもそうだろう。
DNAの二重らせん構造を発見した人、ワトソンとクリックのうちワトソンのほうだったと思うが、この人もそういうことを書いている。
DNAを研究して生命の神秘を知った、神を深く信ずるようになったと。
今は手元に本がないが、大体こんな意味のことを書いてあった。
ワトソンはDNAという人体の構成要素、極めて小さな一部分を徹底研究することで、天を垣間見たのである。
天とは何か
そもそも天とは何か。
易の乾卦に「乾は
元は「おおいに」とも読むし、「はじまり」とも読む。その場合、「
乾卦では大哉乾元、大なるかな乾元と、乾の元の徳を称賛する。
元は大きな徳であり、始まりの徳である。
万物はこの元の徳によって始まる。万物のはじまりを成すのだから、それはそれは大きい徳である。
あまりにも大きい。無限といってよい大きさである。宇宙間にはこの大きな元の気、つまり大元気が遍く行き渡っている。
この大元気によって世界が始まり、今も大元気は活動を続けている。世界の原動力である大元気は無尽蔵で終わりがない。今も、これからも万物が活動を続けてやまないのは、この大元気のためである。
この大元気を、儒者の言葉では天という。
元と仁
元亨利貞をそれぞれ分けると、元は始まりをなす大きな力。
亨は通る、元で始まったものの発展を助け、伸ばす。
利はよろし、何でも伸び放題では仕方がない、よろしきを得るようにする。
貞はただし、利でよろしきを得たところで、そこを堅固に守って仕上げる。
これを四徳に配すると、元は仁、亨は礼、利は義、貞は智。
元亨利貞・仁義礼智はどれも天徳である。根本は元・仁であり、亨利貞は元に、義礼智は仁にまとめて考えることもできるが、それぞれの働きによって元亨利貞・仁義礼智と分けることもできる。
天とは大元気のことであり、大元気とは大いなる仁、天の徳そのままの誠の仁のことである。
天に吉凶禍福なし
経書、殊に易などでは天や吉凶ということをたくさん書いてある。
しかし本来、大元気の働きには吉凶も禍福もない。天にも吉凶禍福はない。
人間の目から天をみて、そこから教えを汲み取っていくと、人間にとっての吉凶禍福が出てくるだけである。
例えば、天災は人間にとって凶である。しかし天にとって凶であるかといえば、そんなことはない。
地震や火山の噴火、気候の大きな変動、生物の大量絶滅、長い間そういうことを繰り返してこの世界が作られた。それは今も続いている。
天が凶を下してこの世界を作ったわけではない。吉を下してこの世界を作ったのでもない。
人間の目を通してみた場合に、天の働きが吉や凶や禍や福に見えるだけであって、天そのものに吉凶禍福があるのではない。
仁者にも吉凶禍福なし
仁は天徳であれば、これを得た仁者にも吉凶禍福はない。
小人は禍を避けるために権謀術策を用い、容易に道を外れる。
しかし仁者は道を重んじる。結果的に吉・福を引き寄せることはあっても、それが目的ではない。凶・禍が身に迫っても、それを避けるために策をめぐらすことはない。
道を重んじ、吉凶も禍福も甘んじて受け入れる。
仁者にも人生があり、苦労もあれば悦びも悲しみもあり、外から見れば仁者にも吉凶禍福がある。
仁者自身も、吉は吉、凶は凶、禍は禍、福は福であるとする。
吉を凶として悲しんだり、凶を吉として喜んだり、そんな捻じ曲がった考え方をするなら小人である。喜ぶべき時に正しく喜び、悲しむべき時に正しく悲しみ、度を過ごさないのが中庸である。
しかし仁者にとって、吉凶禍福はあってないようなものである。
仁者は、吉凶禍福も道の上にあることを知っている。天の道、大元気の働きによって、人間でいうところの吉凶禍福が生じることを知っている。
吉も道なり、凶も道なり、禍も道なり、福も道なり。吉凶禍福があるのではなく、ただ道があるのみである。
ゆえに天にも仁者にも吉凶禍福はない。
仁者に差別なし
また大元気の働き、天の働きは全くの無私である。当然差別もない。
したがって仁者には差別がない。だから物がよく見え、よく聞こえる。耳目聡明で、善悪がよく分かる。
善人の善を好み、悪人の悪を悪む。無私無慾であるから、私の感情や慾で判断することはない。善悪をそのまま見る。
真の仁者であって、はじめてこれができる。
論語里仁篇の「仁者は能く人を好みし、能く人を悪む」とは、こういう意味である。
地の徳を考える
この章句の意味は、易の坤卦を読んで一層よく分かった。
地の徳は空虚・消極
坤卦の象伝にはこう書いてある。
地勢 は坤 なり。君子以て徳を厚くし物を載す。
地の形勢は「坤」であり、坤卦は陰爻を六つ重ねて作る。
陰爻は剛柔でいえば柔。空虚・消極・マイナスなどを意味する。
地は至って空虚なものである。
草や木は大地に生え、獣も人間も大地の上で生活をしている。だから空虚のイメージがないかもしれない。しかし、地は絶対の消極・空虚・他力本願である。
地がひとりで万物を生み出すことはできない。
草ひとつを見ても、地だけでは生み出せない。太陽の光や熱、雨、もっといえば四時の巡り・天の運りがなければ、何一つ生み出すことはできない。草がなければ虫も獣も人間も存在しえない。
地は絶対の消極である。一切の私なく、天の徳・生成化育の大元気をそのまま受け入れる。
地は絶対の空虚である。天の徳をいくら入れても、溢れたり漏れたりすることはない。
これによって大地の上に万物が生じる。人間も生きてゆける。
これが地の徳である。
消極に徹底するのが地の尊いところである。地そのものは何も働かず、天の働きを受けて万物を育み、いくらでも載せるところが尊いのである。
地の徳と君子の修養
これに続けて、「君子以て徳を厚くし物を載す」と説く。
地勢は坤なり、坤は陰爻を六つ。空虚の上に空虚を重ねて地の徳ができあがる。陰爻に陰爻を重ねて徹底した空虚・消極の徳を得て、万物を載せて育んでいる。
80億の人間など軽いもので、どんなに高い山を載せても、大河を載せても、地球上の海水は13亥5000京リットルというがそれを載せても壊れることがない。
空虚を厚く厚く積むことで、地はこれだけ強くなる。
君子はこれを見て、地の徳を学び、自分の徳も厚くなるように勉強する。道徳を重ね重ねて、やがて地ほども厚くなれば、天下万物を我が一身に載せても耐られるほど強くなる。
学問は、この強さを得るためにやるものだ。苦難に遭ったとき「君子もとより窮す」と喝破した孔夫子の強さは、学問によって養ったものである。
学問すれば気力が強くなる。気力が盛んであれば、難に遭って益々奮う。
そうでないものは乱れる。小人窮すれば
学問のある者とない者の区別はここにあると、根本通明先生は仰る。
学問して弱弱しいなら、学問が足らないか、やり方がまずいのである。
地の徳を体する
坤卦の象伝について、周易述義には以下のように書いてある。
地、万物を載するは、万物に
順 ひて厚薄に私する無し。君子、物を載するは、万情に順ひて好悪に偏する無し。
敦龐淳固 にして、一物として之を容受承藉 せざる無し。是れ坤の徳を体して以て徳を為す者なり。
地が万物を載せるには、色々な物がある中でそれぞれを載せるべきように載せる。私の勝手で地の厚薄が乱れることはない。
君子が物を載せる(世を治める、人を治める、物を治めるなど)にも、色々な感情(万民万物それぞれの性情)がある中でそれぞれを正しく載せる。私の好悪によって偏ることはない。
敦龐は厚く大きい、淳固は素直で固い。君子の徳は厚く大きく素直で固い。
四つのうちどれが欠けてもいけない。
大きく素直で固くとも、厚くなければ壊れてしまう。
厚く素直で固くても、大きくなければ少ししか載せることはできない。
厚く大きく固くとも、素直でなければ厚薄の私・好悪の偏があって万物をよろしく載せるわけにはいかない。
厚く大きく素直でも、固くなければ沈んでしまう。
敦龐淳固がみな揃って地の徳である。それでこそ一物として容受承藉せざる無し、ひとつ残らず受け入れて載せることができる。
坤の徳・地の徳を体現した君子であって、はじめてそれができるのである。
易で論語が分かる
易の「君子、物を載するは、万情に順ひて好悪に偏する無し」が分かると、論語の「仁者は能く人を好みし、能く人を悪む」の意味もよく分かる。
易で論語が深まるのを、この一年で何度も経験した。
仁者の徳、君子の徳がどうあるべきか、それがよく分かる。孔夫子が仰ったのはこういうことであったかと、やっと一息つけるような思いがする。
しかし地の徳に休息はない。天の徳・大元気は間断なく、休まず働き続ける。地はそれを全てそのまま受け入れる。とすれば地にも休息はない。
君子・仁者は、好悪に偏することがない。そのためには地のように厚く徳を積み、地の徳を体するべきである。
これでも、君子終日乾乾夕惕若、死して後已むといったことがよく分かるのである。
一息ついている場合ではない。理解が深まった嬉しさ、楽しさとともに、ますます勉強したいと思う。