根本先生の論語講義を筆写している。
ようやく曾子三省の章句に至ったが、ここで大変なショックを受けた。
私は、論語を繰り返し読んできた。筆写もやった。
暗唱できる章句も多く、曾子三省も私にとってなじみ深い。
しかし、何の意味もなかった。
私は曾子の三省をほとんど実践していないことに気づいたのだ。
例えばこの一カ月、三省を実践した日がどれだけあったか。
おそらく数日だろう。覚えてもいない。
論語読みの論語知らずになりたくない、論語読みの論語知らずは馬鹿である。
そう思ってきたが、自分がまさにその馬鹿であった。
易における君子終日乾乾、夕に惕若たりということも、全く実践できていなかった。
時間をかけて易を学んだ。
公田先生から、大変良い教えを受けたのに、一体何をしているのだろう。
丁寧に学んだつもりだった。
しかし、”つもり”に過ぎなかったのだ。
丁寧に知識をつけただけだ。
丁寧に実践し、自分を磨いているのではなかった。
馬鹿すぎてあきれる。
学問上の失敗にふと気づいたとき、絶望感にさいなまれる。
これまでやってきたことはなんであったかと、腹が立ってくる。
久々に頭に血が上る感覚になった。
怒ると体力を使う。頭がぼんやりして、脳が溶けるようだ。
あまりにも乱暴な文章を書きすぎたので、30分くらい静坐し、気を静め、全体的に文章を改めた。
怒りを人に遷してはいけない。
身近なところから実践だ。
愚鈍なのだから、一歩ずつ、泣きながらでも、腹を立てながらでも、愚直にやっていくしかないのだ。
ここから再出発しよう。
せっかく、毎日日記をつけているのだから、そこで三省の機会を設ければよいではないか。
下愚に二有り、自暴なり、自棄なり。(孟子・離婁章句上)
学問して、失敗して、自暴自棄に陥るところだった。
愚鈍な人間が、正直に励む。しかし愚鈍だから失敗も多い。そこで自暴自棄に陥りそうになる。
馬鹿が学問するとき、よほど注意しておかないといけない。学問とは危険なものだと痛感した。
最後に、私が大反省した論語講義の一節を紹介します。
根本通明先生曰く、
「朝早くから日の終わるまで学問勉強する。或は人に交つて種々の事を行ふ。終日の事であるから、もう日暮になつて、今日はくたびれたなどと云つて遊んではいけませぬ。
日が暮れた上には、朝から日の暮るヽまでの間の事を考へて調べて見る。それを調べるに此の三の事を以て調べる。其れで三省と云ふ。
既に一旦行ひました後に、其の行うた所は如何でありましたか、行うた所の中に行届かぬ所でもありはせぬか。又過つた事でもあつたではないかと捜し立てヽ、能く考へて見る。
悪い所は速かに改める。届かぬ所は、これではならぬと益々勉強する。曾子などの一代の行ひは皆な此の通りであります。」