孟子や荀子を読み、どちらが本当であるか迷い、孔子はどうであろうかと論語をひもとく。
しかし論語の教えは、性善説とも性悪説とも断じかねる、どちらとも取れる言葉が多く、ますますわからなくなる。
性善説・性悪説のどちらが正しいか、これは結局のところ視点の違いで、考えようによってどちらでもあり得る。
しかし私は、強いてどちらかといえば論語の説く所は性善説であると思うし、孔子はそのようにお考えであったろうと思う。
だから私は、性善説に賛成である。
性善説・性悪説に関して質問を受けたことでもあるし、今回はこれを考えてみたい。
質問は以下の通り。
仁者はなぜ偏らないか
まず、里仁篇の章句から。
子曰く、
惟 仁者のみ能く人を好 みし、能く人を悪 む。
孔子が仰る。
善い者を善いとして褒め、また悪い者を悪いとして悪む。これができるのは仁者だけである。
好は「好む」というより「
悪むは悪を悪として憎むこと。
偏ることなく、これを正しく判断できるのは仁者だけであるという。
なぜ仁者にこれができるか。
それは仁者だからである。仁とはそういうものだからである。
人は天徳を稟けて生まれる
儒教の根本的思想では、人は天から生まれたものとする。
これは論語では少しわかりにくい。老子や易を読むと良く分かるが、ここでそれをお話しすると大変込み入った話になるので避ける。
簡単に言えば、まず無極というものがあった。それが太極となった。
そこから天と地、陽と陰の両儀が生まれた。
それが大きな陽と小さな陽、大きな陰と小さな陰の四象に分かれた。
さらに八つの卦に分かれ、それらを二つ重ね合わせた六十四卦も生まれた。
天地が生まれ、火や水や山など、世の中を構成する色々なものが生まれた。さらに小さくなると草や木や虫や鳥や獣や人が生まれた。
元をたどれば全て無極から分かれたものであり、全てに同じ徳がある。天と同じ徳を持っている。当然、人間にも天徳がある。
儒教ではこのように考える。もっとも、これは儒教だけではなく、一切衆生悉有仏性というのもこれと大体同じであろうと思う。
論語でもなんでも、深く理解するにはこれは大切なところなので、ぜひ覚えておいてください。
天徳とは中正の徳
人間には天徳がある。忠とか仁とか言うのも、結局は天の徳を様々に表現したものである。
中庸とは中なる徳、天の中正の徳である。天の中正の徳そのままの心、これを忠という。忠は偏らない。ただただ中正である。
中正であれば、何事も誤らない。
人を助けるべき場合に、助けるべきように助ける。有難迷惑にならない。
人を助けるべきでない場合には助けない。それで間違いがない。
仁に過ぎれば却って不仁になるが、それがない。至って仁である。忠も仁も同じとはこのようなわけである。
中正であれば人付き合いに偏りがない。
偏らず正しいのだから、善い人は善いとして嘉するし、悪い人は悪いとして悪む。
仁者の嘉する・悪む、これは中正の徳によって善い・悪いと捉えるのである。
仁者には私欲がない
一点でも欲があればこうはいかない。欲があれば、単なる好き嫌いになる。
人を見るとき、この人と深く付き合えば利益になりそうだ、この人は自分を気分よくしてくれる、そんな理由で好む。
あるいは、この人は自分にとって不利益である、嫌なことを言うやつである、などとして嫌う。
並みの人はこうである。欲があるからだ。
仁者であって、はじめて人を本当によく見て、嘉して交わったり、悪んで遠ざけたりできる。
それも全て、仁者には仁という天の徳があり、天には私欲がないからだ。
性善説か性悪説か
見方によってどちらともいえる。
仁者は偏らない。
これを単に「人間には天の徳が最初から備わっているからだ」と考えるなら、性善説といえる。
しかし「人間の本性は悪である(欲があり弱い存在である)から、どうしても偏ってしまう。しかし努力を重ねて仁者になれば、その偏りはなくなる」と考えるなら、性悪説である。
克己復礼
次に顔淵篇から。これは以前書いたことがあるので、極く簡単にみてゆく。
天の徳をそのまま稟けた人間本来の心には私欲がない。仁であり忠であれば私欲はない。
しかし、人間には肉体がある。本来の精神は天徳そのままであり私欲もないが、肉体(己)には欲がある。珍しいものを見たい、耳ざわりの良い言葉を聞きたい、うまいものを食べたい。
肉体の欲に流されると心が汚れる。本来の精神が曇り、埋もれ、健全な発達ができなくなる。
人間の心にはそういうところがある。肉体の欲にとらわれると、正しい礼儀もなくなる。
しかし身(己)の欲を去れば、礼に
礼とは仁の発露である。克己復礼で礼に復れば、それはもう仁である。
だから、孔子は顔回から仁になる方法を問われて、「克己復礼」と教えたわけである。
性善説か性悪説か
「人間の本性は天徳であり仁であり、身の欲を去って礼に復ればそのまま仁となる」と考えるなら性善説である。
「人間の身には欲がある。克己復礼の努力がなければどうしようもないのが人間だ」と考えるなら性悪説である。
ひとつのたとえ話
孔子の教えは、それを受け取る人の見方によって性善説にも性悪説にもなる。
どちらが本当であるか、色々複雑に考えてみたところで混乱する。
私は、この問題を植物で例えてみて、「性善説のほうが良いな」と思ったことがある。
種の本性はどこにある
植物の種がある。この種は、地に植えることで発芽し、生育・発展していく力を備えており、これが種の本性である。
数千年前、数万年前の種でも、適切な環境に置けば発芽するという。これは、そうなるべき本性を備えているからである。
もちろん、数千年も数万年も、発芽せずに種のままでいたことも事実である。
本性があるからといって、必ずしもなるべきようになるとは限らない。
本性を現わさないまま死んでしまう種もあるだろう。
過酷な場所に落ちてしまったら、種は死んでしまう。発芽し発達すべき本性が、環境によって死んでしまう。
性善説か性悪説か
「植物の種には発芽し発展する力がある。これが本性である。日光を当て、水や肥料をやって正しく育てれば、大いに発達する」
これは性善説である。
これを性悪説で考えるとどうか。
「植物の種は発芽し発展する力が乏しい。これが本性である。だから日光を当て、水や肥料をやって正しく育てなければ発達しない」
となる。
善なる本性は確かにある
しかし、この例えで考えると性善説が正しいように思える。
死んだ種にも、本性が備わっていたことは間違いないからだ。
正しく導けば本性を発揮して発達したに違いない。善なる本性があったのである。
※その後、貝原益軒先生の著書に同様の例えを見つけた。こちらの方が分かりやすいのでぜひご覧ください。
孔子は性善説
孔子ご自身はどうであったろう。
克己復礼の章句をみても、私はそう思う。
顔淵篇の章句で、孔子はこう仰る。
己に克って礼に復るを仁と為す。一日己に克って礼に復る。天下仁に帰す。
己に克って礼に復れば、そのまま仁である。
一日克己復礼。一日でも己に克って礼に復るならば、それは仁に違いない。
すると、天下の人々が皆その人の仁徳に帰服するようになる。
天下は仁に帰着する
ただ、私なりに考えてみて、
「克己復礼で仁となる、その仁に天下が帰服する」
という解釈も確かにそうであると思うけれども、
「克己復礼で誰でも仁になる。学問で誰でも仁になれる。皆が学問道徳を修めるならば、天下は仁に帰着する」
と考えたい。
仁者の徳に人々が帰服する。それも確かにそうだが、そこから更に、
「人ならば誰しも持って生まれたところの本性に、克己復礼で帰着する。再び帰る。身の欲に振り回され、本性は曇り、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、定まらずに紆余曲折したけれども、克己復礼で再び本性に帰着する」
というところまで考えたい。
もっとも、これは私の勝手な自説・新説ではなく、仁者の徳に天下が帰服するならば、その後に必ず天下仁に帰着するのが道理である。
そこまで考えたい、そこまで考えると孔子の教えは性善説とわかるのである。
ひとたび克己復礼すれば
まず、一日克己復礼。これを「一日でも克己復礼すれば」ではなく、「ある日、克己復礼すれば」とみたい。
「一日」は「一旦」とみても良い。一旦、ある朝、ひとたび、そちらのほうが分かりやすいように思う。
里仁篇には、こんな言葉もある。
朝に道を聞けば夕に死すとも可なり。
これは有名な言葉である。解釈は色々だが、
「ある朝、大道を聞くことが出来たならば、その日の夕方に死んでも良い」
「ある朝、天下に道ありと聞くことができたならば、その日の夕方に死んでも良い」
などと解する。どちらも、
・一旦道を聞けば夕に死すとも可なり
・一日道を聞けば夕に死すとも可なり
で通じるわけである。
これと同じで、「一日己に克って礼に復る」の一日を「朝」「一旦」と解するならば、「ある朝(ひとたび)己に克って礼に復る」となる。
人は誰でも、克己復礼で仁になる。ある朝(ひとたび)克己復礼すれば、それはもう仁である。その仁徳に天下が帰服する。
仁に天下が帰服するとどうなるか。先王有至徳要道以順天下、である。仁者の徳を以て、天下挙って順となる。道に順と逆とあり、順は仁であり逆は不仁である。天下が順になる、これは天下が仁に帰着するのである。
天下は仁に帰着する。ここが極めて重い、ここが感動的である。
これによって、人間だれしも本性は仁であり、天の徳を持っていると分かる。
正しい学問、心掛けによって道を悟って克己復礼、それでたちまち仁となる。誰でもそれができる、その本性がある。誰でも克己復礼で仁になれる。
仁者の徳に天下帰服し、この至徳要道以って天下を順にすれば、天下の人々が挙って礼に復る。これで、天下は仁に帰着する。
人間ならば誰でも、仁という善なる本性を持っている。克己復礼でそこへ帰する。
この章句をこのように読めば、孔子は明らかに、三字経でいうところの「人の初めは性本と善」であったといえる。
あえて説を立てるなら性善説であった。
孔子の言葉に痺れませう
克己復礼為仁。一日克己復礼。天下帰仁焉。
これを読めば、「孔子の教えで天下を救える」と確信する。
痺れるような言葉だ。
しかし性善説とか性悪説とか、そんなことはあまり重要と思わない。
孔子の言葉に感動したら、私にはそんなものどうでもよくなった。
ナントカ説にこだわるより、孔子の言葉に痺れましょう。
感動しながら学びたい。孔門の先輩方はそうであったろうと思います。