周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

酔中独言:義弟のこと

独りでお酒を飲みながら、過去の写真を見ていた。

あまり写真は撮らない。ちょっと上にスクロールすると、すぐ1年以上前になる。

サーッと上に行くと、6年前、弟と遊んだ時の写真が出てきた。クリスマスの日、男二人で昼から飲んだときのもの。


弟は私と違って器用な奴だから、私を招くに当たって用意周到。その夜に飲むお店もきちんと予約していた。

私は気が急く方だ。夕方から予定があるなら、その日の午前中からソワソワするし、だいぶ早く到着して時間を持て余す。

その日も昼頃には到着。お店の予約は当然夕方からであったから、駅で落ち合い、ラーメン屋で飲んだ。餃子にビール。


時間を潰して居酒屋へ。何を食べたか、ひとつも覚えていない。話したことも覚えていない。焼酎を飲んだことを、かろうじて覚えている。

その年の夏、数年ぶりに再会して大いに飲んでいたから、あまり積もる話がなかったのかも。

その後カラオケに行った。クリスマスのカラオケの値段に驚いた。これはよく覚えている。

 

その帰り、デパートでレミーマルタンを買って帰った。
弟は今でも「俺がウイスキー、ブランデーを飲むようになったのは兄貴の影響ですよ」という。思えば学生の時分、たまに2人でバーに行った。その時は一緒にバーボンを飲んだ。

当時、弟はウイスキーを好まなかったが、私に合わせてうまそうに飲んだ。

 

色んなことを思い出す。その日の夜、私は旅の疲れもあって早々に眠くなった。弟はワンルームの一人暮らし。ベッドはひとつ。
学生の頃、弟の家で飲んだ時もそうだったが、飲んで寝る時、弟は黙って私にベッドを譲り、自分は床で寝る。私は「一緒に寝ようや」とベッドに誘うが、一緒に寝たことはない。

 

お風呂にしたって、私に先を譲る。
昔、私の家で風呂を沸かした時のこと。私の引っ越しの日であったから、他にも数人の男がいた。
風呂に入る順番を決めよう、じゃんけんしようか。そんなことを言って、なんとなく私が1番になった。弟に「お前も一緒に入るか」と言うた。その時は一緒に入ったのかな。よく覚えていないがそんな気もする。


学問をした者でないが、弟は道を知っている。弟のことを考えていると、よくそんな風に思う。

学問した人間でも、なかなか道理が分からない人がいる。頭で順序を理解していても、なかなか実践に至らない。我が出る。人の本性は立派なもので道に適うが、慾でそれが曇る。我が出ておかしなことになる。孔子はそう仰る。

その点、弟は道理を弁えている。ここには感心する。本性そのままの、弟の良い所だと思う。

 

弟は私に教わったというが、私は何も教えていない。そういう男なのだと私は思う。だから、色々な事件もありつつ、その上で兄弟付き合いができるのだろう。

その反面、思いて学ばざれば罔しで、ふとしたときにびっくりするような間違いもする。かつて先輩後輩だったころには厳しく責めたこともあるが、今は兄弟なので「睦」ということを重視している。

 

或る人が孔子に問うた。先生はなぜ政事をなされませぬか。

孔子はお答えになる。別に朝廷で政事を執る必要はない。孝なるかな惟れ孝、兄弟に友に有政に施す。親に孝行したり、兄弟で仲良くしたり。それで立派に政事である。

 

身を修め、家が斉い、治国平天下。朋友同士、あるいは先輩後輩の関係ならば厳しく責めることもあるべきだが、兄弟はそういう関係ではない。

 

翌朝目を覚ますと、弟は朝食の準備をしていた。ご飯に味噌汁があった。その他にもいろいろあったが、覚えていない。

味噌汁にセロリが入っていたのは覚えている。朝食を食べつつ、昨晩残したブランデーを飲んだことも。

それと、朝の番組でASKAの薬物事件の特集をしていたこと。

 

 

学生時代、同級生はあまり飲まない方だった。飲み方もあまり楽しくなかった。

大勢で飲んでいるのにテレビやゲームに奔る。「男がこれだけおって、何でそんなことになるか」いつも不満であった。一緒に飲んで楽しかった、痛快であった、そんな思い出は少ない。

一人で飲めば昔を思い出す。昔、お酒を飲んだことも思い出す。不満の残ることはあっても、別に悪い記憶というほどではない。良いお酒を飲んできたと思う。

しかし頻度でいえば、弟と飲んだことを思い出すことが多い。当時から今に至るまで、一貫して、「近いうちまた飲もう」「いつ飲んでも良い」という男は、まあ弟が筆頭である。

 

 

 

数週間前に弟と飲みながら、ここに書いたような話をした。私たちが初めて、バーで会った時のことも。

初めて会った日、私は弟にとんでもないことを言っていた。お金を貸せと言った。

 

その日、友達の彼女が妊娠してしまったかもしれぬということで、私は相談を受けた。

まず検査したら良い。それで出来ていたら生むか。友人は生むと言った。

彼氏の方も、彼女の方も、私にとって親しい仲である。二人が付き合うにあたって、元カレ問題を私が処理したこともあって、他人事ではなった。

 

しかし学生であるし、お金に不安がある。親もなかなか頼れない。「分った、協力するから納得のいくようにしろ」と言った。お金のことは話さなかったが、それも含めて「協力する、何とかしよう」であった。

学内でカンパをしたらよかろう、足りぬ分はバイトしても良い、足りなければ借たらよい。そんな風に考えていた。

この相談を受けたその日に弟と会ったのだ。お酒を飲んでいたこともあって、その日初めて会った弟に、事情を極く簡単に話して「お金貸せるか」と言うた。

 

そのことを、私は全く覚えていなかった。弟から言われても思い出せない。

しかし先日、初めて会った日の話になって、私がなんとなく、

「あの日は友達が妊娠で云々で大変でなあ…」

と言った。その時の事情を細かく話したら、弟は、

「ああ、今、初めてつながりました」

と。なぜ私がお金を借りたがっていたか、10年以上経て、それが初めて分かったと。

 

当時、私はちょっと普通でなかったし、初対面でお金の話をした。弟は、付き合うべき人でないと思ったという。

しかし弟にとって、私は初めて見るタイプの人間であり、それでなんとなく興味があった。また家も近く、私が「今度うちに飲みにこいよ」と誘ったこともあって、もう一度飲んで見極めようと肚を決めた。

 

後日、バイト終わりに弟が我が家へ来た。

それを私は羽織袴で迎えた。最初に会ったとき、私はバーで飲むというので浮ついた気分があったし、その日、改めて交友を結ぼうと思うところがあったから、礼服で迎えた。

 

冬だった。

初めて会った日、弟はビールばかり飲んでいた。それを見て、ビールしか飲めぬ人らしいと分かっていたから、瓶ビールをたくさん買っておいた。冷蔵庫が壊れていたから、ベランダで冷やしておいた。

 

弟は羽織袴で迎えられ、部屋に入ると壁一面に本があった。

友達は、その後すぐに検査をして妊娠していないことが分かったし、私の方でも弟に「お金を貸せ」といったことはすっかり忘れていたから、再びその話は出なかった。

私が話すことや考え方は、弟からすれば特殊であった。良く分からないながらも、なんとなく信用できると思ったという。

何を話したか、私は全然覚えていない。しかし、私には大勢の友人がいて、似たような話はしたことがあるはずだが、感応したのは弟だけであって、やはり弟は私と通うところがあったのだろうと思う。

何でもない話をしていて、弟はしばしば「やっぱり俺は兄貴に似てますね」という。数ある薬味の中でもシソが一番好き、といった何でもないところで、「似ている」と言ってくる。

寄せてきているんじゃないかと思うこともあるし、そういうのはあまり好きでないが、弟が言ってくる分には別に不快でないし、「おぉそうか、お前もか、俺もそうだ」となる。

 

二回目に飲んだその日。一通り飲み終わってお開きになると、弟はそのまま帰るでなく、二人分の食器を全部洗って帰った。

私は、この男は道を知っていると思った。弟の方でも、私と付き合っていこうと、気持ちが固まっていたという。

 

それから間もなく、弟は私を兄として扱い出した。

私が、彼を弟として扱うには時間がかかった。申し訳なかったと思う。

私には血のつながった兄がいるが、弟はいない。弟を持つということがよく分からなかった。それで、受け入れるのに少々時間がかかった。

また人間、色々なことがある。悲しいことも含めて色々ある。兄弟付き合いをしたが、外からのこと、組織のこと、色々あってもう二度と会えなくなった男もいる。

 

そんなこともあって、義理の兄弟というものに難しさを感じてきた。

しかし色々なことを経て今がある。

弟は私の全てを知っているのではないが、まあ、親よりは知っている。それで未だに付き合いがある。

数年間、音信不通の期間もあったが、関係が切れない。

まあ色々な事情も知りつつ、数年間音信不通で、なお付き合いがある。親族ならそうだろうが、親族でなければどうか。

義理がなければまず無理だ。義理があるから関係が続く。

私は、この男を義弟として、ようやく本当に受け入れた。

 

そんなわけで、独りで飲めばしきりに思い出すし、独りで飲むことが少し寂しく思われる。そんな男を得たことをありがたく思っている。

まあ何にせよ、私の義弟は良い男です。