親孝行というものは、頭では大切に思っていても、いざ実践となると難しい。
そんなふうに思われがちである。
しかし、親孝行などというものは、ごく当たり前のことである。
当たり前に理解でき、当たり前に実践できるものだ。
要は、考え方ひとつである。
孝行は簡単
孔子は、孝行を幼いころからの心がけとして教えた。
言い換えれば、幼い子供でも十分に実践できることとして教えたのだ。
孔子は、実践困難なことを、当たり前のこととして子供に教えるようなお人ではない。
もちろん、孝行にも色々ある。
曾子の曾晳(曾子のお父上)に対する孝行は、大なる孝行であった。
曾元(曾子のご子息)の曾子に対する孝行は、これに比べると小さかったとされる。
孝行にも色々あって当然である。
いきなり聖人君子の大なる孝行を実践しようとしても、それは難しい。
しかし、小さな孝行ならば誰でもできる。
そもそも、現在、親孝行に難しさを感じているならば、これまでの実践経験が乏しいのではないかと思う。
程度の差こそあれ、実践してきた人は小さな孝行が簡単であることを知っている。
そこから押し広げていくことが簡単であることも知っている。
親の年齢を知ること
まずは小さな孝行により、第一歩を踏み出すことが肝心だ。
第一歩はどこに据えるべきか。
論語とは、つくづく実践的な書物である。
論語には、第一歩として誰でも簡単に始められる孝行を色々に述べている。
例えば、里仁篇で孔子は以下のように仰っている。
父母の年をは知らざるべからず。一は則ち以て喜び、一は則ち以て懼る。
親の年齢は知っておかなければならない。
その理由は二つ。
ひとつは、親の年を思うたびに、長く元気でいてくれることを喜ぶ。
もうひとつは、親の年を思うたびに、健康を損なう可能性が高まったり、亡くなったりする時期が近付いていることを懼れる。
親の年齢を知る孝行
親の年齢を知らなければ、喜びも懼れも抱きにくい。
親の年齢を知るくらい、誰でもできる。
親の年齢を知れば、そこから喜びや懼れが生まれる。
この思いそのものが、小さくはあるが立派な孝行である。
孝行を実践しかねて、親の年齢による喜びも懼れも抱かないままいるよりも、よほど孝行であるといえる。
次なる孝行への足掛かり
親の年齢を知り、喜びと懼れを抱くことは、次なる孝行へと進む足掛かりにもなる。
親の年齢を知らずとも、誕生日は知っている人は多かろうと思う。
私も、孔子の言葉を意識するまで、親の年齢は知らず誕生日だけ知っていた。
親の年齢を知れば、誕生日を知っていることも活きてくる。
誕生日、親がひとつ年をとった。
まず喜びがある。めでたいから祝ってやろうという気持ちになる。
懼れもある。親にはあと何回誕生日がくるか。そんな気持ちも起こって来る。
遠方にいる場合、懼れを強く感じるかもしれない。
私はそうだった。
親にはあと何回誕生日がくるか。
遠方であまり帰省できない。あと何回会えるか。
毎年1回帰省しているなら、あと何回くらいと大体わかる。
意外と少ないことに気が付く。
親が今50歳、毎年1回帰省しているなら、親が100まで生きても会えるのはたった50回にすぎない。
そこで、帰省の回数を増やそうとか、親に電話する回数を増やそうとか、色々な思いになってくる。
近くに住んでいる人や、実家に住んでいる人も、そのありがたさが分かる。
この思いがあれば、ひとつ上の孝行を実践するのはたやすい。
年齢を知っているところから出た、より大きな孝行といえる。
誕生日プレゼントは大きな孝行
親の年齢を知り、誕生日を知っていると、めでたいからプレゼントをあげよう、といった気持ちにもなる。
懼れも同じ。あと何回誕生日を祝えるか、何回プレゼントを買ってやれるか。
そう考えると、親の誕生日を忘れることはないし、プレゼントの機会を失うことを懼れるようになる。
日常的にプレゼントするのも、もちろん良い。しかし、誕生日プレゼントをしたいと思えない人には、日常的なプレゼントには気が付きにくいだろうし、人によっては気恥ずかしさもあるだろう。
だから、節目節目に祝う。
プレゼントは絶対に必要か。
もちろん絶対ではない。
お金がなければ、お祝いの言葉だけでもよいだろう。
しかし、お財布と相談しながら、相応にプレゼントなどあげたほうが孝行の道にかなっている。
私は、プレゼントをあげることも立派な孝行であると考えている。
親に心配をかけるは不孝
論語為政篇から、これが分かる。
孟武伯が孔子に問うた。
「孝行とはどうすることでしょうか」
孔子は、
「父母には、病気のこと以外で心配させないことだ」
と仰った。
父母に心配をかけないことも立派な孝行である。
だから孔子は里仁篇で、
両親がいる間は、あまり遠方へ外出しないほうが良い。
もし遠方へ行くならば、行先などを必ず伝えよ。
と教えている。
孔子の時代、遠出は危険なことであった。
これは、旅行の「旅」の字の由来を知るとよくわかる。
これについては別の機会に詳しくお話するが、ともかく遠出は危険であった。
親も心配することだから、できるだけ遠出するな、やむを得ず遠出するならば心配を減らすようにせよと教えたのだ。
ともかく、親に心配をかけるのは孝行の道ではない。
心配をかけなければ、かけないだけ孝行の道に適う。
病気は仕方ないけれど
とはいえ、病気だけは仕方ない。
自分が注意していても、交通事故でケガすることがある。
健康管理に気を付けていても、風邪をひくことがある。
顔回のように、おそらく健康上の問題で、親より先に死んでしまうこともある。
健康に気を付けるのも孝行だが、どうしようもないことがある。
ならば、それ以外ではできるだけ親に心配をかけないのが良い。
孔子はこれを孝行と仰った。
親の心配を減らす孝行
ここから、プレゼントが孝行であるといえる。
プレゼントすれば、親の心配を減らせるのだ。
例えば、社会人の場合。
経済的に自立している人がそれなりのプレゼントをすると、プレゼントするだけの余裕があることが分かり、親は子に対して経済的に心配しなくなる。
また、自立して一人暮らしをしたり、遠方に引越したりすれば、親と共有する時間が減る。
親の手を離れ、親子の縁が薄れることを寂しく思う親も多い。
実際に、就職を機に親子の縁が薄れることが多いようだ。
そこで、誕生日を祝い、プレゼントを渡し、親子で時間を共有する。
親子の縁を再確認すれば、親の心配は減る。
このとき、仕事の話などしてやれば、親はさらに安心する。
これは孝行である。
学生の場合。
学生であれば、経済的な余裕のない人も多かろう。
それでも、何かプレゼントしてみる。
親には、きちんと勉強しているか、なにを勉強しているか、分からないかもしれない。
社会へ向かってしっかり成長しているか分からない親もいるだろう。
そういう心配を和らげるにも、プレゼントをする。
それで、親がともかく優しい子に育ってくれたと思えば、これは孝行である。
学校の事はよく分からないけれども、まあ子供を信じて見守ろうという気になるかもしれない。
プレゼントを機に親密な時間を共有できれば、学校のことや将来のことなども話せる。
それによって、いくらかでも親が安心すればよい。
子の立場に関係なく、父にプレゼントをあげると、母は父親思いの子であると思い、嬉しい。
母にプレゼントをあげると、父は母親思いの子であると思い、嬉しい。
どれもみな立派な孝行である。
義理事に広げる
親に対するプレゼントだけではない。
友達の出産祝い、転職祝いなど何でもそうだ。
人に優しくしてあげられること、友への信義を守れる人間になったことを見せてやる。
人間を磨く学問をしているなら、義理事をしっかりこなして、その結果を見せてやる。
これは孝行の道であると同時に学徒の本懐でもある。
学問の結果を親に知ってもらえるのは、大変に嬉しいことだ。
孝行は身近にある
孝行をお金で買うわけではないが、お金でできる孝行も確かにある。
お金に善悪はない。使い方次第である。
お金の使い方で不孝になることもあるし、孝行になることもある。
身の丈に合わないプレゼントをするのは、親不孝になる。
それが負担になるのではないかと親を心配させるからだ。
変な副業でもしているのではないか、などと気を揉ませることもあるだろう。
孝行というものの本質をよく理解していれば、そのような心配をかけることはない。
お金でできる孝行をしっかりとできる。
長々と書いてきたが、言いたかったのは「孝行の実践は簡単だ」ということである。
親の年齢を知る、最初はこれだけで良いのだ。
何かの機会に、何歳か聞けばよい。
親とあまり親密でなかった人は、ぎくしゃくしたり、気恥ずかしかったり、色々思うところはあるかもしれない。
しかし、躊躇することはない。
孔子の教えの通りに振る舞って、何の恥じることがあろう。
親の年齢、たったそれだけの知識で孝行がどんどん広がる。
高度な知識はあるが、親の年齢を知らない。
大して知識はないが、親の年齢を知っている。
孔子の道からすれば、後者の方が道に近い。
私はそんな風に思っている。
弟よ、お前は今、実家でのんびりしていることと思う。
もしお前が親御さんの年齢を知らないなら、聞いておくとよい。
すでに知っているなら、いらぬお節介だけどね。