周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

DaiGoの騒動に思うこと

時事を論ずることはあまり好きではないし、個人に対して色々意見を言いたくはない。

しかし、メンタリストDaiGoの騒動には、儒学的にも色々と思うところがあり、ひとつ文章を書いてみたいと思う。

 

「知」について思うこと

まず、事の発端となった発言。

DaiGoがホームレスの命を軽んずる発言をしたことだが、発言の細かい内容については一般人から有名人まで多くの人が指摘しているから、ここで問題にはしない。

考えるまでもなく、誤った発言である。

 

知識より見識、理想は胆識

DaiGoの本は、興味本位で何冊か読んだことがある。

勉強家らしいというイメージを持った。

ただ、考え方や生き方などは私の理想とは遠いし、彼からなにか学ぼうという気持ちはほとんどない。

特に、知識はあるのだろうけれども、道からは乖離している。

儒学でいえば、知は五常のひとつであり、善悪を判断するという重要な働きがある。

知が欠如すれば、到底道に至ることはできない。

 

しかし、その知とは単なる知識では心もとない。

善悪や価値の判断・判別のためには、知識ではなく見識でなければならない。

 

知識は、頭の機械的な働きによっていくらでも得られる。

本を読んだり、講義を聞いたり、動画を観たりすれば大抵はなんとかなる。

DaiGoのような読書家になれば、膨大な知識を持っているのだろうと思う。

しかし、それだけでは駄目なのだ。

今回のような失敗が出てくる。

 

 

見識がなければ軽薄に

「彼のように知識があれば、思っていても言ってはいけないと分かったはずだ」

といった批判を多く見たが、それはどうだろう。

知識が多かったとしても、それが偏っていたり、学んで思わざるの知であったりすれば、却って判断を誤るのではないか。

 

自分の考えが正しいか否か、言うべきか否か、そういった判断を誤る可能性は誰にでもある。

とりわけ、「知識人」などと呼ばれる人において、「まさかこの人がこの失言を」といった失言や過失が目立つ。

なぜか。知識はあっても見識がないからだ。

 

見識とは、生きた学問によって培われるものだ。

良い理想を抱いて、色々な矛盾や抵抗を味わい、経験も積み、自分なりに考え、「学んで思わざる」から「学びて思う」になり、そして見識ができてくる。

本を読むだけではそうならない。

 

見識によって善悪・価値の判断が正しくできるようになった上で、矛盾や抵抗に屈することなく実行・決断できる力を「胆力」という。

胆力だけでは間違ったほうへ突っ走る恐れがある。そうなれば、もはや胆力ではなく軽率でしかない。

それをうまく操るだけの見識が欠かせない。

見識と胆力が混然一体となったものを「胆識」という。

 

DaiGoが、思っていることを言った勇気や決断力をほめる人もいる。

しかし、これは褒められることではない。

知識をたくさん身につけ、しかし見識はなく、善悪・価値の判断が不正確な状態で突っ走っただけで、これは単なる軽挙に過ぎないと私は思う。

実際、多くの人を傷つけたのだし、社会的影響も危惧されるような騒動であったのだ。

 

知識よりも見識が大事であり、見識を以て初めて胆力が活きてくる。

彼がこれを理解していなかったことに、今回の騒動の根本原因があるように思う。

 

 

慎んで知を練ること

知識であっても見識ではなく、ましてや胆識ではなかった。

知の練り方が浅かった、ということに尽きる。

 

知を練るには、慎みが大切だ。

ツイッターなどで「年間何百冊も本を読んでいます」といった自慢をよく目にする。

しかし、自慢するようなことだろうか。

たくさんの本を読めば知識はつくが、それ以上ではない。

そのような勉強方法には不健全なものを感じるし、DaiGoの一件でますますその思いを強くした。

慎んで学ばなければ知識を出ないし、学んだ上で出てくる発言や行動にも慎みがなくなるのではないか。

 

学徒たる者は、謙虚でなければならない。

学ぶこと、実践すること、全てにおいて孔子は慎みを重んぜられた。

たくさんの本を読み、人に教えられるだけの知識を身につけても、根本に慎みがなければ破綻する。

その思いを深くした。

 

 

謝罪動画を少しだけ観て

DaiGoがスーツを着て謝罪している動画が出ていた。

少しだけ見たが、なんとなく不憫に思われて観るのをやめた。

 

道理の分からぬ人間の多さ

本心はどうか知らないが、ともかく謝ったことに「よう謝ったね」という気分を強く持った。

それ以上見ても仕方がないし、普段自信家であるDaiGoが謝るのを長々と観るのは忍びない気がした。

 

また、私が謝ってもらう問題ではない。

ああいう謝罪というのは、その発言が原因で不快になった人や心を傷つけられた人などに対して広く謝罪するものなのだろう。

私は特に不快になっていないし、謝られる筋合いではない。

 

この騒動で私が思ったのは、道理に暗い人間の多さである。

こんな道理の分からない人間がインフルエンサーという立場にある。DaiGo本人が問題であるのはもちろんだが、それを支持する人間(道理の分からない支持者)の多さに一層深刻な問題がある気がする。

社会全体が病んでいるのではないか、という印象を強く持った。

 

まあそれだけのことで、腹も立てていないし、被害も受けていないし、謝られる立場にない。

 

便乗して正義を振りかざす人々

私と同じように、謝られる筋合いではない人は大勢いるはずだ。

特に、ストレスのはけ口のように、騒動に便乗して騒ぐ人。

こういった騒動の際、当事者ではなく、関係者でもなく、普段から問題意識を持っているのでもないのに、変に義憤に駆られて、ここぞとばかりに正義を振りかざす人が結構いるように思う。

謝罪を受ける立場にもないはずだが、周りに流されて騒ぎ立てる。

このような人ほど、謝罪しようが何をしようが責め続ける傾向があるように思う。

いつまでも責め続けることの非道も分からないからだ。

 

過失と仁・不仁

今後、DaiGoがまたおかしな発言をしたら、「反省していない」という批判を受けるのは当然であるし、一層強く責められるべきだろう。

しかし、本心はどうであれ謝罪をしたのだ。

おそらく、いつまでも責め続ける人間がいくらもいるだろうが、私はそれに賛成しない。

 

降伏した相手は許すのが仁というものだ。武士の情けというものだ。

そんな甘いことではいけない、形だけの謝罪して許されるのはおかしいという人もいるだろう。

だが、私はそうは思わない。

 

過失に仁を観る

孔子は、里仁篇でこのように仰っている。

民の過ちや、各々其の党に於いてす。過ちを観て斯に仁を知る。

ここでの「民」とは「人民」ではなく、広く人を指していう。「党」とは、人ぞれぞれの性分。

つまり孔子は、「人の過失というのは、それぞれの人の性分によるものだ。だから、過失をみればその人に仁があるかどうかが分かる」と仰った。

 

孔子の人物鑑定法

人には性格・性分というものがある。残忍な性格の人もいれば、優しい性格の人もいる。

裏も表も残酷な人、

裏も表も優しい人、

裏は残酷だが表は優しい人、

裏は優しいが表は厳しい人、

残忍か優しいかだけでも、色々な人がいる。だから人物鑑定が難しいわけだが、過失を観れば根っこの部分が分かりやすい。

 

不仁ゆえの過失

例えば、今回DaiGoは人の命を軽視する発言で失敗したわけだが、これによって彼の性格が残忍酷薄であったことが分かる。

メンタリストという肩書であるから、表面上は人に優しく思われるようなテクニックもあるのだろうけれども、孔子の人物鑑定でいえば残忍酷薄である。

 

仁ゆえの過失

逆に、仁に厚いために失敗する人もいる。

例えば、許されざる悪人に対して、しっかり反省したと考えて許した。しかし、根っからの悪人であったから改心できず、また悪事を働いてしまった。

この場合、悪人も悪いが、許した人も問題だ。許すことなく処分していたら、後日の悪事もなかったはずだ。仁に厚すぎるために起こった失敗といえる。

しかし、この過失によって、許した人が仁に厚いことも分かる。

 

失敗をみるには、その人の性分から考えることが重要だ。

「罪を憎んで人を憎まず」というのも、結局はそういうことだろうと思う。

 

どちらも中庸ではないが

このように、残忍であるために失敗する人もあれば、仁に厚いために失敗する人もいる。

どちらも中庸を得ていないから、良いとはいえない。

中庸を得るのは難しい。どちらの失敗も大いにあり得る、ならばどちらがマシといえるか。

当然後者である。失敗しているには違いないが、後者には仁がある。

 

不仁者は、不仁によって多くの害悪をもたらす可能性がある。

仁者は、仁に厚くて失敗することもあるが、それ以上に社会にとって有益なことが多い。

 

許さず責める不仁

今回の失言から、DaiGoの不仁が浮き彫りになった。それを責めた人も大勢いる。

失言をしたのだし、それが本人の不仁に因るものであるから、責められるのは仕方ない。

DaiGoは、本心はどうあれ謝罪した。それを許すかどうか。

許さずに責め続けるならば、それは仁とはいえない。一旦降伏した相手を徹底的に責めるならば、それは不仁である。

 

謝罪を受ける立場にない者が、謝罪した者を許さずに責め続けるのだから、「ここまで責める」という基準もないはずだ。

有罪判決を受けた人でさえ刑期何年と区切りがあるのに、ひとつの失言に対してそういう区切りもなく責める。

責めが終わるのは、自分が飽きた時、責めるべき別の対象が見つかった時、大多数の人が責めるのを辞めた時、といったところか。

反論できない者に対し、信念のない責めを続けるのだ。そんなものは不仁である。

私は、そういう責めをする人が嫌いだ。

 

鄭伯の明

鄭の荘公が許を攻めたときのような、情のある見方をしても良いのではないか。

隠公の十一年、諸侯としての法を守らなかったために鄭は許を討った。許の国君は衛に亡命し、許は降伏した。

荘公は許し、亡命した国君の弟を立て、徳のある人物に監督させて許国の復興を助けた。

君子は、荘公の処置を「礼にかなったもの」と称えた。

 

悪いことをした人は責められるべきであるし、謝罪する必要もある。しかし、責めるのはここまでにしておき、あとは見守っておけば良いのではないか。

許国の場合、討伐の原因を作った国君が亡命し、許国に禍はなくなった。ほかにも禍の種はあるかもしれないが、ともかく討伐の原因は排除できた。だから鄭伯は許をそれ以上責めなかった。

 

DaiGoにしても、今回の騒動の原因であった「ホームレスに対する失言」を謝罪し、認識を改めると言ったのだ。

彼の性分には、ほかにも禍の種があるかもしれないが、ともかく今回においては責められるべきところは、一先ず片付いたわけだ。この上さらに責めるのは不仁に思えるがどうか。

 

今後、今回のような問題が起こらなければ、それは今回の加害者も、被害者も、傍観者も、批判者も、全員にとって幸である。

再び今回のような問題が起こったとき、再び不幸を被る人が出る。けれども、許しを生んだ仁そのものに罪はない。

 

謝罪したのだから一先ずこれでよい、武士の情けであると思えること、そこに仁があることが尊い

そのように考えず、引き続き大勢で一人を責め続けるならば、それは不仁である。

 

DaiGoを責める人の多くは、それぞれが自分なりに正義感を抱いているだろう。社会のため、という感じを抱いている人も多かろう。社会のためというなら、ぜひ許すが良い。

苛政は虎よりも猛しという。政治だけではなく、厳しすぎる社会になるのはだれも望まないだろう。

失敗が許されない不仁に満ちた社会は、あまりにも厳しい。それよりも、各々が小さな仁を為せる社会、仁の多い社会の方が良いに違いない。 

今後もDaiGoひとりを責め続けて大勢が小さな不仁を犯すよりも、ここまでと考えて許し、これまで責めていた大勢が小さな仁を為すほうが余程良い。

 

世の中から不仁を減らそう、仁を増やそうというのが、孔子の志である。

DaiGoひとりの不仁を許さずに、大勢が不仁に陥るか。

DaiGoひとりの不仁を許して、大勢が仁を得るか。

私はDaiGoを許す方が、道に適っていると思う。