孝行が軽視されがちな現代においても、孝行という徳を完全に否定し去る人は少ない。
そういう考えもないではないが、異端であって取るに足らない。
多くの人が、こんな時代においても、孝行は美徳だと思っている。
子が為す孝行を、真っ向から否定し攻撃する人はいない。
否定的に感じても、実際に否定・攻撃することはない。
大多数の人が孝行に肯定的であることを知っているからだ。
そこを攻撃すると、多数を敵に回し孤立する。
だから、否定的な見解を胸の内に秘めておく。
逆に、例えば子が親を虐待するとか、殺すとか、そういったことは大罪とされる。
「親は他人だ。自分は自分の人生を生きる」などの考えもあるが、親を全く赤の他人として捉えることは難しい。
赤の他人を殺すことと、親を殺すことを、全く差のないことと考えることは難しい。
赤の他人を殴った人、親を殴った人、どちらを悪人だと思うか。
どちらも良くないに違いないが、差は大きい。
親を殴る奴の方が、圧倒的に社会的信用を損なうだろう。
現代においても、大多数の人が親孝行を美徳であり、親不孝を悪徳と考えている。
しかし、孝行というものが廃れつつあるのは事実だ。
概念的に捉える人が増えたように思う。
これは良くないことだ。
なんとなく、親孝行はよいこと、親不孝は悪いことと考えていても、では実際にどうするか、これが分からないからである。
孝行、仁義、礼儀、信義、道徳はなんでもそうだが、実践を伴って初めて意味を持つ。
親孝行を美徳と思うだけで、実践を伴わず、概念的に考るのはいけない。
親孝行を頭だけで考えて、日常・現実において考えない。
親との付き合いにピリッとしたものがない。
親の気持ちを汲み取れない。
孔子の仰る「父在せばその志を観る」ことができない。
これでは、親不孝と変わらない。
孔子が仰ったのは、孝行の基本である。
父が存命のときは、志や気持ちを汲み取りながら振る舞う。
親が希望する所があれば、叶えてあげる。
これは紛れもなく孝行である。
飲食の望みを叶えるだけではない。
親が子に対して「人にやさしい人間であってほしい」と思えば、周囲に優しく振る舞う。
親がそんな希望を抱くのだから、子は陰惨な性格なのだろう。それを改めるのは孝行である。
親が子らに対し、「兄弟で仲良く支え合ってほしい」と思えば、仲良くするよう努める。
親がこの希望を抱くのは、兄弟の仲が良くないからであろう。仲良くするのは孝行である。
実践を伴わない概念的な孝行では、これができない。
親の思うところを叶えられないのだ。
親の気持ちを考えず、気持ちに反する行いを為し、知らないうちに親不孝の悪徳に陥ることもあるだろう。
単に頭で親孝行を考えて実践しなければ、このような危うさがある。
しかし、実践となるとまた難しい。
手近なところから、できることから孝行すればよいのだが、それがわからない。
親の気持ちを考えよう、ということが基本なのだが、そもそも何をどう考えるべきか分からない。
だから取りつきにくい。
まず、わからないなりに考えることが大切だろうと私は思う。
分からないから考えなくなる。これが普通だ。
分からないなりに考える。これが大切だ。
分からなくても、考えていると徐々に変わってくる。
普段ならば何も感じないところで、なにか感じることがあり、手掛かりになる。
本を読んで感じる、鳥が飛ぶのを見て感じる、いろんなことが実践に結び付く。
実際、考えることが習慣になると、びっくりするほど分かるようになる。
実践も容易になる。
簡単に言って、親に対して気が利くようになる。
痒い所に手が届く、そんな風になる。
私も、この習慣に努め、少しずつではあるけれども、孝行ができているように思う。
数年前、私は遠方での生活を切り上げて地元に帰った。
親と離れて暮らした期間が長く、関係がかなり希薄になった過去もあった。
孝行は大切であると、当然頭では分かっている。
しかし、いざ親に孝行するとなると、何をどうすべきか、孝行とはどうあるべきか、はっきりと分からなかった。
まずは、普段目上の人にやるように、親に対して気を利かせるようにした。
食事中の心がけなど、よい練習・実践になったと思う。
親が何を食べたいか考え、食べ物や調味料を揃える。
お酒に気を回すのも面白かった。
缶ビールを飲んでいると、量が減るにつれてテーブルに置くときの音がだんだん高く、軽くなっていく。
さりげなくそれを聞いている。
もうじきなくなると思えば、サッと出す。
万事この調子でやっていく。
これを続けるうちに、孝行が自然なふるまいになっていく気がしている。
あるとき、父がお仏壇に供えるため、片手にご飯を、片手にお茶を持って仏間に向かった。
仏間の扉が閉まっていた。父の両手がふさがっている。
私は、さっと行って扉を開けた。
何でもないことだが、考えるより先に体が動いた。
父は扉をどう開けるのだろう、難しかろう、私が開けるべきだろう、そんな考えは一切なく、全く自然な行動としてそれができた。
このときはじめて、私も少し孝行者になったなと、大きな喜びを得た。
考えるより先に動けるか、これがひとつの目安になるのではないかと思う。
私は学生時代、剣術をやった。
流派は薩摩の示現流である。
示現流に「立」という打ち業がある。「りゅう」と読む。
今、口に出して「りゅう」と言ってみていただきたい。
舌はどんな動きをしただろうか。声はどうであったろう。
「りゅう」と言う前に舌は上あごにつく。
「りゅう」と言う時、舌が速いか、声が速いか。
「り」と言うかどうかのタイミングで舌は上あごを離れる。
「ゅう」と言い終わる前に、舌は元の位置に戻っている。
舌は刀、声は斬る意思である。
「立」と言う前に舌は上あごにつき、言おうとすると即座に離れる。
相手を斬ろうと思って刀を抜き、振り上げ、斬るのでは遅すぎる。
斬る意思のあるかないかのとき、すでに刀を振り上げている。
さあ斬ろうと決断しないうちに、すでに刀を振り下ろしている。
立とは、考えるより先に動き、敵を制圧する業であり、示現流の根本はここにあるといわれる。
だから、示現流は「二ノ太刀なし」なのだ。
「立」と相手に斬りかかる。
考えるより先に動くのだから、成功や失敗など考えていない。相手にかわされた、また立とやる、といったことは示現流の哲学にはないことだ。
そこから、示現流特有の猛烈な撃ち込みができてくる。
考えるより先に動き、親のために扉を開けたとき、私は立の呼吸で孝行できたと思った。
だから、喜びも大きかったのだ。
直心影流の榊原健吉先生と、山田次朗吉先生の逸話にも、「考えるより先に」のよい例がある。
これは、またいずれお話します。
気を利かせることは、些細ではあるものの、孝行には違いない。
また、考えるより先に孝行が出てくるようになれば、それなりに納得して良いと思う。
気を利かせるという孝行は、小なる孝かもしれない。
しかし、大なる孝の前提として欠かせない。
些細なところで親の気持ちを理解せず、小なる孝さえできないのに、親の大きな志など分かるはずもない。大なる孝は不可能だ。
大なる孝とはなにか。
例えば、「父没すればその行いを観る」がそれである。
父が没した後は、直接志を伺うことはできない。
しかし、小なる孝を基礎として、存命中の行いに照らして考えるならば、没後も父の志に違うことがない。没後も志を尊重する。これは大なる孝といえるであろう。
存命中に志を汲めなかった者が、没後に志を汲むことは不可能である。
そこで、日常の些細な実践、小なる孝の積み重ねが重要である。
これは、孔子の道そのものである。
行いて余力あれば、学問する。
孝行をぼんやり考え、実践せず、それで大道を語るのは小人の儒であって、恥ずべきことである。
凡人には、至らないところが多いだろう。
十分に孝行できないかもしれない。
しかし、日常の些細なことを丁寧にやるならば、学問も着実に進むだろうし、小人の儒にも陥りにくいだろうと思う。
なによりも、孔子の教えを奉じる者として、自分自身恥ずべきところを、一つずつ潰してゆける。
儒学は、学ぶほどに恥ずかしく感じることが多い。
恥を知ることは大切だ。
しかし、恥を知っても改めなければ意味はない。
恥を知りて改めず。これが一層恥ずかしい。
実践することによって、自分自身に恥じるべきことが減ってゆく。
これは尊いことであると思う。
先日、ビジネス系のコラムで「自己肯定感を高める朝の習慣」みたいな記事があった。
くだらないものであった。
起きたら背伸びをしよう、好きな音楽を聴こう、あとは覚えていない。
脳内ホルモンがどうのこうのと書いてあった。
こんなコラムがたくさんの人に読まれるのだ。
道理の分からない人が多いのだな、社会全体が病んでいるのだろう、そんな風に思った。
自己肯定感とは、自分で自分を受け入れること、認めることである。自分を否定しないことである。
そのためには、学問と実践に励み、自分自身に恥ずべきことを減らし、自己否定に陥る要素を減らし、成長を実感することで自分を認め受け入れる。
そういったことが重要なのではないか。
背伸びして、音楽聞いて、何になる。
道を学ぶこと、実践すること、これに尽きる。
君子は本を務む。本とは孝行である。
孝行を概念的に考えず、日常の些細なことから孝行を心がける。
些細な孝行の実践から出発すれば、自己肯定感なるものも得られようし、仁にも近づけよう。