周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

剣の呼吸で孝行す

 孝行が軽視されがちな現代においても、孝行という徳を完全に否定し去る人は少ない。

そういう考えもないではないが、異端であって取るに足らない。

多くの人が、こんな時代においても、孝行は美徳だと思っている。

 

子が為す孝行を、真っ向から否定し攻撃する人はいない。

否定的に感じても、実際に否定・攻撃することはない。

大多数の人が孝行に肯定的であることを知っているからだ。

そこを攻撃すると、多数を敵に回し孤立する。

だから、否定的な見解を胸の内に秘めておく。

 

 

逆に、例えば子が親を虐待するとか、殺すとか、そういったことは大罪とされる。

「親は他人だ。自分は自分の人生を生きる」などの考えもあるが、親を全く赤の他人として捉えることは難しい。

赤の他人を殺すことと、親を殺すことを、全く差のないことと考えることは難しい。

赤の他人を殴った人、親を殴った人、どちらを悪人だと思うか。

どちらも良くないに違いないが、差は大きい。

親を殴る奴の方が、圧倒的に社会的信用を損なうだろう。

 

 

現代においても、大多数の人が親孝行を美徳であり、親不孝を悪徳と考えている。

しかし、孝行というものが廃れつつあるのは事実だ。

概念的に捉える人が増えたように思う。

 

これは良くないことだ。

なんとなく、親孝行はよいこと、親不孝は悪いことと考えていても、では実際にどうするか、これが分からないからである。

孝行、仁義、礼儀、信義、道徳はなんでもそうだが、実践を伴って初めて意味を持つ。

 親孝行を美徳と思うだけで、実践を伴わず、概念的に考るのはいけない。

 

親孝行を頭だけで考えて、日常・現実において考えない。

親との付き合いにピリッとしたものがない。

親の気持ちを汲み取れない。

孔子の仰る「父在せばその志を観る」ことができない。

これでは、親不孝と変わらない。

 

孔子が仰ったのは、孝行の基本である。

父が存命のときは、志や気持ちを汲み取りながら振る舞う。

親が希望する所があれば、叶えてあげる。

これは紛れもなく孝行である。

 

飲食の望みを叶えるだけではない。

親が子に対して「人にやさしい人間であってほしい」と思えば、周囲に優しく振る舞う。

親がそんな希望を抱くのだから、子は陰惨な性格なのだろう。それを改めるのは孝行である。

 

親が子らに対し、「兄弟で仲良く支え合ってほしい」と思えば、仲良くするよう努める。

親がこの希望を抱くのは、兄弟の仲が良くないからであろう。仲良くするのは孝行である。

 

実践を伴わない概念的な孝行では、これができない。

親の思うところを叶えられないのだ。

親の気持ちを考えず、気持ちに反する行いを為し、知らないうちに親不孝の悪徳に陥ることもあるだろう。

 

 

単に頭で親孝行を考えて実践しなければ、このような危うさがある。

しかし、実践となるとまた難しい。

手近なところから、できることから孝行すればよいのだが、それがわからない。

親の気持ちを考えよう、ということが基本なのだが、そもそも何をどう考えるべきか分からない。

だから取りつきにくい。

 

まず、わからないなりに考えることが大切だろうと私は思う。

分からないから考えなくなる。これが普通だ。

分からないなりに考える。これが大切だ。

分からなくても、考えていると徐々に変わってくる。

普段ならば何も感じないところで、なにか感じることがあり、手掛かりになる。

 本を読んで感じる、鳥が飛ぶのを見て感じる、いろんなことが実践に結び付く。

 

 

実際、考えることが習慣になると、びっくりするほど分かるようになる。

実践も容易になる。

簡単に言って、親に対して気が利くようになる。

痒い所に手が届く、そんな風になる。

私も、この習慣に努め、少しずつではあるけれども、孝行ができているように思う。

 

 

数年前、私は遠方での生活を切り上げて地元に帰った。

親と離れて暮らした期間が長く、関係がかなり希薄になった過去もあった。

孝行は大切であると、当然頭では分かっている。

しかし、いざ親に孝行するとなると、何をどうすべきか、孝行とはどうあるべきか、はっきりと分からなかった。

 

まずは、普段目上の人にやるように、親に対して気を利かせるようにした。

食事中の心がけなど、よい練習・実践になったと思う。

親が何を食べたいか考え、食べ物や調味料を揃える。

お酒に気を回すのも面白かった。

缶ビールを飲んでいると、量が減るにつれてテーブルに置くときの音がだんだん高く、軽くなっていく。

さりげなくそれを聞いている。

もうじきなくなると思えば、サッと出す。

万事この調子でやっていく。

 

これを続けるうちに、孝行が自然なふるまいになっていく気がしている。

あるとき、父がお仏壇に供えるため、片手にご飯を、片手にお茶を持って仏間に向かった。

仏間の扉が閉まっていた。父の両手がふさがっている。

私は、さっと行って扉を開けた。

何でもないことだが、考えるより先に体が動いた。

父は扉をどう開けるのだろう、難しかろう、私が開けるべきだろう、そんな考えは一切なく、全く自然な行動としてそれができた。

 

 

このときはじめて、私も少し孝行者になったなと、大きな喜びを得た。

考えるより先に動けるか、これがひとつの目安になるのではないかと思う。

 

私は学生時代、剣術をやった。

流派は薩摩の示現流である。

 

示現流に「立」という打ち業がある。「りゅう」と読む。

今、口に出して「りゅう」と言ってみていただきたい。

舌はどんな動きをしただろうか。声はどうであったろう。

 

「りゅう」と言う前に舌は上あごにつく。

「りゅう」と言う時、舌が速いか、声が速いか。

「り」と言うかどうかのタイミングで舌は上あごを離れる。

「ゅう」と言い終わる前に、舌は元の位置に戻っている。

 

舌は刀、声は斬る意思である。

「立」と言う前に舌は上あごにつき、言おうとすると即座に離れる。

相手を斬ろうと思って刀を抜き、振り上げ、斬るのでは遅すぎる。

斬る意思のあるかないかのとき、すでに刀を振り上げている。

さあ斬ろうと決断しないうちに、すでに刀を振り下ろしている。

立とは、考えるより先に動き、敵を制圧する業であり、示現流の根本はここにあるといわれる。

だから、示現流は「二ノ太刀なし」なのだ。

「立」と相手に斬りかかる。

考えるより先に動くのだから、成功や失敗など考えていない。相手にかわされた、また立とやる、といったことは示現流の哲学にはないことだ。

そこから、示現流特有の猛烈な撃ち込みができてくる。

 

 

考えるより先に動き、親のために扉を開けたとき、私は立の呼吸で孝行できたと思った。

だから、喜びも大きかったのだ。

 

 

直心影流の榊原健吉先生と、山田次朗吉先生の逸話にも、「考えるより先に」のよい例がある。

これは、またいずれお話します。

 

 

 

 

気を利かせることは、些細ではあるものの、孝行には違いない。

また、考えるより先に孝行が出てくるようになれば、それなりに納得して良いと思う。

 

気を利かせるという孝行は、小なる孝かもしれない。

しかし、大なる孝の前提として欠かせない。

些細なところで親の気持ちを理解せず、小なる孝さえできないのに、親の大きな志など分かるはずもない。大なる孝は不可能だ。

 

大なる孝とはなにか。

例えば、「父没すればその行いを観る」がそれである。

父が没した後は、直接志を伺うことはできない。

しかし、小なる孝を基礎として、存命中の行いに照らして考えるならば、没後も父の志に違うことがない。没後も志を尊重する。これは大なる孝といえるであろう。

 

存命中に志を汲めなかった者が、没後に志を汲むことは不可能である。

そこで、日常の些細な実践、小なる孝の積み重ねが重要である。

これは、孔子の道そのものである。

行いて余力あれば、学問する。

孝行をぼんやり考え、実践せず、それで大道を語るのは小人の儒であって、恥ずべきことである。

 

凡人には、至らないところが多いだろう。

十分に孝行できないかもしれない。

しかし、日常の些細なことを丁寧にやるならば、学問も着実に進むだろうし、小人の儒にも陥りにくいだろうと思う。

 

なによりも、孔子の教えを奉じる者として、自分自身恥ずべきところを、一つずつ潰してゆける。

儒学は、学ぶほどに恥ずかしく感じることが多い。

恥を知ることは大切だ。

しかし、恥を知っても改めなければ意味はない。

恥を知りて改めず。これが一層恥ずかしい。

 

実践することによって、自分自身に恥じるべきことが減ってゆく。

これは尊いことであると思う。

 

先日、ビジネス系のコラムで「自己肯定感を高める朝の習慣」みたいな記事があった。

くだらないものであった。

起きたら背伸びをしよう、好きな音楽を聴こう、あとは覚えていない。

脳内ホルモンがどうのこうのと書いてあった。

 

こんなコラムがたくさんの人に読まれるのだ。

道理の分からない人が多いのだな、社会全体が病んでいるのだろう、そんな風に思った。

 

自己肯定感とは、自分で自分を受け入れること、認めることである。自分を否定しないことである。

そのためには、学問と実践に励み、自分自身に恥ずべきことを減らし、自己否定に陥る要素を減らし、成長を実感することで自分を認め受け入れる。

そういったことが重要なのではないか。

 

背伸びして、音楽聞いて、何になる。

道を学ぶこと、実践すること、これに尽きる。

 

君子は本を務む。本とは孝行である。

孝行を概念的に考えず、日常の些細なことから孝行を心がける。

些細な孝行の実践から出発すれば、自己肯定感なるものも得られようし、仁にも近づけよう。