周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

俚諺を儒学で解すると(1)果報は寝て待て

ことわざは、良いものだと思う。

先人の知恵だ。

しかし、ちょっと見るとわけのわからないものも多い。

嘘を言っていると評されることわざも少なくない。

 

私は、否定的に解されることわざも、どこか真実を含んでいると思う。

儒学で解すると、そう思えることが多々ある。

ブログで、そういうものを取り上げると楽しかろうと思い、書いてみることとした。

 

こういう文章は初めてなので、考えをまとめつつ書く。

冗長になると思うけれども、お許しください。

 

 

 

 果報は寝て待て

さて、まず思いついたのが、「果報は寝て待て」ということわざだ。

世の中には運というような一定の流れやリズムというのがあるから、あまりじたばたせず、気長に待とうという意味だ。

ただ、一般的には、

 

「運はどうにもならないから努力しても仕方ない。寝ていたほうがマシだ。そのうちいいこともあるさ」

 

といった解釈をする人が多い。

 

仏教的解釈

この解釈には、仏教の影響が強いように思う。

果報の「報」は「報い」「報酬」などを意味する。

仏教的には、前世からの因縁によって現世で受ける報い、幸福といった意味である。

前世からの因縁では、どうしようもない。前世で悪行を尽くしたならば、現世で心掛けが良くても幸福は期待できない。

かといって、来世に期待するのも気の遠い話だ。

 

そもそも、前世で自分がどのように生きたか、現世では知ることができない。

前世で良いことをしていたなら、現世で良い報いを受けられる。寝ていても幸福になるだろう。

前世で悪いことをしていたら、現世で悪い報いを受ける。努力しても不幸になる。来世のために努力してもいいが、なかなか真剣にはなれない。寝ていたほうがマシだ。

前世がどうあれ、どのような報いがあるにせよ、寝て待つべし。

 

怠惰な印象

現代の一般的な解釈は、仏教的な解釈のうち、因果応報が抜け落ちたものではないか。

前世や現世の因縁は抜きにして、

 

「幸福や不幸はどうにもならない。どうにもならないのだから、寝ていたほうがよい」

 

という解釈になったのではないかと思う。

そこで「このことわざは嘘だ」となる。

 

「努力は必ず報われるものだ。寝ていてうまくいくことはない。怠惰で馬鹿なことわざだ。」

 

というわけである。

引き寄せの法則という、怪しげでよく分からないものがある。これによって考えても、

 

「幸運は自ら引き寄せるべきであって、怠惰は良くない、果報は寝ていても得られない。不運は自らの手で打ち破れ」

 

といったことになるのだろう。

 

 儒学で解すると

たしかに努力は大切だし、幸福も不幸も自分次第だろう。

しかし、努力というものの一面だけを見て、あくまでも積極的に、滅多矢鱈に前進せよというのは誤りだ。

果報を寝て待つべき時期もある。

 

 

需の卦で考える

儒学的に考えると、とりわけ易理に照らすと、このことわざは正しい。

道理に合っている。

 

このことわざは需(水天需)の卦によって解するのが良い。

需とは待つことである。養う意味にも通じる。

人間に限らず、全ての生き物は他から養われる。

水、空気、食物など、他の物から養われることを待って、はじめて生きていくことができる。

 

また需の卦は、水天需、すなわち上に水、下に天の配置である。

水が天より高く昇っている、空に雲がある形である。

天高く昇った水は、いずれ雨となって地上に降り注ぐ。

全ての生き物は、その養いを待って生きる。

 

待つ姿勢の問題

ただし、需の卦の本意は「待つべきものを待つ」であって、「待つべからざるものを待つ」ではない。

棚から牡丹餅、とは違う。

 

待つべきものを待つのは、正しい姿勢である。

待つべからざるものを待つのは、正しくない姿勢である。

正しい心で待ってこそ、他の養いによって成長もできる。

正しくない心で待てば、それこそ「棚から牡丹餅」「濡れ手に粟」で、他の養いを受けても成長はない。

 

顔子の姿勢

また、そのような態度で待っても、養いは得られないものだ。

人間に当てるとよくわかる。

誠があり、良い志を持った人間がいる。志を伸ばしたいが、今は好機ではない。

そこで、じたばたせずに、正しい心でじっと待つ。

権力に諂ったり、他人を陥れたり、そういった小賢しいことをせずに待つ。

貧しい中に高潔を保ち、道を楽しんでいた顔子のようなものだ。

顔子も、時機がくれば大いに働いただろう。

その前に亡くなってしまったが、顔子が無理に志を伸ばそうとして、動き回ったらどうであったか。

それは正しくないし、どうなるものではない。

それよりも、道を楽しみながら待つべきと考えたのではないか。

 

少正卯の姿勢

誠のない人間はどうか。

出世や金儲けなどを志している。そんな人間は、志を伸ばすために何でもやる。

今は好機でなく、運が向いていなければ、権力者にこびへつらったり、他人を陥れたり、権謀術数の限りを尽くすだろう。

小人の桀雄と評され、孔子に処刑された少正卯のようなものだ。

頭の回転が速く陰険である、行動が偏っていて頑なである、言葉が巧みである、記憶が醜悪で何でも悪く捉える、不義を改めず正義に見せかける。少正卯はこんな人間であった。

好機到来まで志を正しくして待つ、そんなことは無理な人間だ。

事実、権謀術数を尽くし、不義を働き、志を伸ばすべく立ち回った。

 

志を得た顔子

さて、誠のある顔子と、誠のない少正卯のどちらがうまくいくか。

 

顔子は若くして亡くなってしまったけれども、聖人の道に連なるを得た。

その生きざまが、後世の心ある人を感化してやまない。

顔子は高潔を保ち、養いを待ち、志をとこしえに伸ばし得た。

 

少正卯は、志半ばで処刑された。

 

 

 「果報は寝て待て」は正しい

誠の心で養いを待つと、情勢が変化する。志を得られる時期が来る。

需の卦の「待つ」とは、これを待つのである。

 

来るべき時が来れば、良い知らせ・果報があれば大いに進むという、剛健なる態度で待つ。

進む意欲はあるが、今進んではまずい。情勢が良くない。だから忍耐強く待つ。

 

何の考えもなしにぼんやり待つのではない。

そんな態度では、長い間じっとしていることは無理だ。

我慢できなくなって、時機の至らぬうちに軽挙妄動して失敗するに違いない。

 

 

需の卦によって「果報は寝て待て」を考える。

 

怠惰に、ぼんやりとした態度で待っていれば果報を得られるという意味で考えると、確かに嘘になる。

しかし、これは正しい解釈ではない。

 

誠実な気持ちで、時機の至らぬうちは静かに勉強でもして、時にはお酒を飲んだり、風雅の道を楽しんだりしながら、忍耐強く、軽挙妄動せずに待つ。

来るべき時に備えて、寝て休むのもよかろう。

そうすれば、やがて必ず果報がある。情勢が好転し、外部環境が整い、他の養いや協力も得られ、志を伸ばしていける。

 

需の道によって正しく待つならば、果報はすべからく寝て待つべし。

「果報は寝て待て」は道理に合う、良いことわざである。