周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

理想的学徒

学徒はいかにあるべきか、どのような姿勢で取り組むべきか。

論語を読むと、これがよくわかる。

孔門の先輩方の姿勢は、学徒の理想的なものである。

 

 

 

曾子の姿勢

私の中で、理想的学徒の筆頭は曾子である。

学問においては、日々学び続けることはもとより、学んだことを日常生活で実践することが重要である。

心がけの良い人は、机上の学問に止まることを嫌い、実践を心がける。

禅でも、坐ることは当たり前の修行で、それ以上に常住坐臥、日常生活での応用を重んじる。

 

曾子は、日常での実践に加えて、日々の反省を怠らなかった。
学問し、実践した後、それをやりっぱなしにせず反省する。

間違いは早速改める。至らぬところは益々勉強する。
曾子の御一代は、ただこの繰り返しであった。

理想的学徒の典型例といえよう。

 

 子路の姿勢

曾子について、上記のようなことが根本先生の論語講義に書いてあった。

そこから敷衍するに、塾頭格の子路にも理想的学徒像を見る。

もっとも、曾子が自ら反省して改めたのに対し、子路は自らの反省によってではなく、他人に指摘されて熱心に改めた。

自分から反省する、人から反省を促される、随分違うようにも思えるが、これは道に至る方法・方針の違いであって、気性によるところが大きかろう。

 

過ちの指摘を喜んだ子路

子路は、己の過ちを指摘されることを大変喜んだという。(孟子・公孫丑章句上)

また、あることを学び終えないうちに、新たな事柄を学ぶのを非常に恐れた。

過ちを指摘され、改めようと努めているとき、新たに過ちを指摘されることも恐れたに違いない。

 

子路の愚直さ

ビジネス書などで、マルチタスクはいけない、シングルタスクを心がけよといわれる。

なにを今更、と思ってしまう。

そんなことは、2000年以上前にわかっていたことだ。

子路は愚直であった。

 

また、これは子路が実践家であったことを意味する。

子路孔子に心酔していた。孔子の教えを、乱暴な言い方をすれば馬鹿正直に学んだ。

そして熱心に実践した。実践したから間違いも起こり、指摘されることもあったのだ。

 

良き先輩として

子路は武闘派であったが、道においては真面目であったのだろう。

学問においては、他人を威圧するようなところもなかったのだろうと思う。

入門後も武闘派で乱暴な人間であったなら、後輩たちは子路の過ちを指摘することを恐れたはずだ。

そうではなかった。子路は過ちを指摘されることを喜んだ。

 

汎く衆を愛した子路

元々、侠気に富み、人に好かれる性格であった。

揉め事があったとき、子路が出ていけばどんなことでも丸く収まったという。

大きな人間であったのだと思う。

元来魅力的な人間であり、学問においても真面目であった。

こういう先輩は、後輩からも親しまれるに違いない。

汎く衆を愛して仁に親しむ。子路にはこれができたのだろう。

それだから人に好かれて、過ちもしっかり指摘してもらえる。

それを真摯に受け止め、改める。

子路に理想的学徒像を見出す時、学ぶにも仁義が重要だと痛感する。

 

 

 

魯鈍は幸い

普通の人は、曾子子路の姿勢に倣えば、大きく間違うことはないだろう。

魯鈍な人には、曾子が良かろう。
孔子曾子を魯鈍と評された。

 

私は、自分が魯鈍であることを自覚している。

弟などは、私を聡明だと評するが、誰が何と言おうと魯鈍である。

私が身につけた学問を以て聡明と評しているのかもしれないが、それは私の本質ではない。

魯鈍な私が、魯鈍ゆえにこれまで積み重ねてきたものを見落としている。

 

弟は、私という人間を概ねよく理解している。

私を見誤っているわけではないだろう。

また、私がやってきたことをよく知っているし、見落としてもいないだろう。

弟の中で、私を聡明だと思いたいのだろう。 

同じように、私は私で、自分自身を魯鈍であると思いたい。魯鈍でありたい。

学問しても、小賢しくなりたくないのだ。

 

曾子は、魯鈍であったからこそ生一本で道を求められたのだと思う。
私も魯鈍でありたい。事実魯鈍に違いない。これは私にとって幸いである。
聖人の道を心底ありがたいと思う。