周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

無窮を考える

今回も、質問への回答。

質問者は、現在近思録を学習中とのことで、以下の質問をいただいた。

近思録を元にした質問ではあるが、これは論語子罕篇に関する問答である。

論語の本文を見ながら考えていきたい。

 

 

伊川先生曰く

質問にあるのは、程伊川先生と門人の問答である。書き下し文と訳は以下の通り。

子、川の上に在りて曰く、逝く者は斯くの如くなるか、と。道の体の此の如くなるを言ふ。這の裏に須らく是れ自づから見得べし。張繹曰く、此れ便ち是れ窮まり無きなりと。先生曰く、固より是れ窮まり無きを道へり。然れども怎生んぞ一箇の無窮、便ち他を道ひ了り得ん。

 

伊川先生が仰る。

孔子が川のほとりで『物事の移ろいは、川のようなものであるな』と仰った。道というものは、川と同じだと仰ったのである。この言葉には、道とはどのようなものであるかが含まれている(この言葉が分かれば、道の本体も自得できるのである)」

弟子の張繹が言った。

「それは、道には窮まりがないということですね」

伊川先生は仰った。

「その通り。道は無窮、ということだ。しかしただ『無窮』と言っただけで、道の本体を全て言い表すことはできない」

 

質問に、「伊川先生は道というものは無窮だけではないと仰りますが…」とある。

「怎生んぞ一箇の無窮、便ち他を道ひ了り得ん」について、「道の本体とは無窮だけではない。ほかにも要素がある。それを知らねば道の本体は分からない」の意味に捉えているものと思う。

 

私は、少し違う見方をしている。伊川先生が弟子に言ったのは

「道の本体は則ち無窮。それはそうだが、ならば無窮とは何であろうか。たしかに道は無窮だが、ここが分からなければ道の本体も分からないぞ」

という意味であると思う。

本文ではこの見方を軸に考えていきたい。

 

論語の本文

この問答は、論語子罕篇の以下の章句を元にしている。

子、川の上に在りて曰く、逝く者は斯くの如くなるか。昼夜を舎てず。

 

孔子が川のほとりで仰った。

「物事の移ろいは、川のようなものであるな。昼も夜も休むことがない」

この章句の解釈では、「逝く者」を「時間とともに過ぎ去ってゆく物事」と捉えることが多い。

川の流れのように、物事は過ぎ去っていく。過ぎたことはどうにもならない。人間の一生はそのように流れていくし、世の中もそのように絶えず移り変わってゆく。

このように解するのが一般的である。

 

伊川先生の解釈

しかし伊川先生は、単に時間とともに過ぎていくことではなく、道の本体と捉えた。

道の本体とはどのようなものであるか。道とはどのようなものであり、どのように歩んでいくべきものであるか。川をみればわかる。

弟子はそれを「無窮」と考えた。伊川先生も「その通り」と仰る。

道とは窮まりのないものである。ならば道を歩むこと、学問道徳の研鑽も無窮である。これで十分というところはない。

一生涯、勉めて已まない。死して後已む。

 

無窮の歩み

無窮の歩みとはどんなものであるか。孔子はどのように歩まれたか。

述而篇にこんな話がある。

葉公が子路孔子の人となりを問うたが、子路は答えられなかった。

それを聞いた孔子が言った。

「学を好み、わからないことがあれば発憤して食べることも忘れてしまう。

学に努めて道理が分かると楽しくなって、どんな憂いも忘れてしまう。

そんな風に毎日を送って、老いたことにも気づかない。

私はただそれだけだと、どうしてお前は言わなかったか」

孔子は、道の無窮なることを知っていた。知っていたから、これで十分ということはなかった。来る日も来る日も学問に励み、老いたことにも気が付かない。一生涯、そうであった。

 

本当に「知った」といえるか

単なる知識としては、「道は無窮である」ということは儒家にとって常識のようなもので、さほど難しくない。

川は昼夜を問わず流れる。流れ続ける。不断の営み、無窮の流れである。道は無窮なのだから、川の流れを以て「道の本体」とみれば、確かにそうである。

このように頭で解することは、そう難しくない。

 

しかし、単に頭で解しただけでは、無窮なる道の本体を真に知ったとは言えない。孔子が老いも忘れて無窮に勉めたのは、道が無窮であることを本当に知っていたからである。

無窮に勉めて、初めて無窮なる道の本体を知ったといえる。ただ頭で解し、口で「道は無窮なり」というだけならば、初学者と何も変わらない。

四六時中、どこを切り取っても道に違わない。それで初めて道を得た(知った)と言える。ただ頭で解し、口で道徳を語るだけならば、初学者と大して変わらない。

伊川先生が仰るのは、そういうことであろうと思う。

 

順序を考える

もう少し具体的に考えてみる。

孔子が川を眺めておられた。川は昼夜を問わず流れ続ける。無窮なる働きである。

これを無窮の道と捉える。君子の歩む道、君子の学問は無窮であると考える。

 

質問者の云う通り、ここには「物事の順序」という観念も当然含まれる。

水は低きに流れる。川の流れは一定である。逆流すること無く、A地点からB地点へ、C地点へと順々に流れる。

川が順序正しく流れるように、道にも順序というものがある。学問にも順序がある。

 

順と逆

道に順と逆とあり。道徳に沿って間違いのないことを順という。道徳に反するのが逆である。

天の道に柔順であり、地の道に柔順であり、人の道に柔順であること、これを順という。特に易で「順」という文字を用いる場合、常にそうである。

つまり、「天道天理に則って正しいこと」が順である。「天道天理に違わぬ順序で」ということも含まれる。

 

天道天理といえば甚だ大きいので、少し小さくして人間の世界に当てはめる。すると、例えば「親には孝、君には忠」といったことが順の最たるものである。臣下が君主を弑し、子が親を殺す、これは逆の最たるものである。

道に順序があるように、学問にも順序がある。

(道と学問と分けて考えるのは本来良くない。どちらも同じである。分かりやすいように、あえて分けて述べているけれども、それは本当でない。)

 

順序を守らぬは怠り

学問するにあたって、正しい順序を踏まなければどうなるか。

学問が成就しない。なぜならば、順序が正しくない学問というのは、往々にして怠りに発するからだ。

 

例えば儒学において、学ぶ順序は諸説あるけれども、「孝経→大学→論語孟子→中庸→五経」が一般的な順序である。孝経の後に小学や近思録をやり、それから四書に進むのも良いとされる。

この他の書は、順序を守って一通り学んだうえで読む。

 

しかし、経営に活かせる知識が欲しい、煩わしい道徳は現代には合わないし、まあひとつ『中国古典名言集』でも読んでみよう。こんな人がよくいる。

これは明らかに怠りである。順序を守ることを敬遠し、楽して実を取ることばかり考えている。

こんなやり方では、何にもならない。根本的に姿勢が間違っているのだから、どうもならん。


私の実感から言っても、たしかにこう思う。順序を守らず、興味の向くままに論語を読んだり老子を読んだり仏典を読んだり西洋哲学を読んだり、ちょっと見ると随分勉強家らしく見えるけれども、ひとつも進歩していない。

一年前に儒学について質問を受けた。なにか、論語をほとんど読んだことがない人のような質問であった。

一年後、別の質問を受けた。それも、論語を知らぬ人の質問のように思えた。

その間、論語は読んでいるにもかかわらず、何も進歩がない。そういう人が確かにいる。


順序を守って学ぶということは、まことに重要である。しかし、実際に順序正しく学び、理解を深めた実感のある者でなければ、順序の重要性を解さない。いつまでも支離滅裂な学び方を続け、いつまでも進歩がない。


順序を守らねば徳を損なう

だだ自分一個において進歩がない。それならば宜しい。しかし大抵の場合、順序を考えず学ぶ者は不善に陥り徳を損なう。

蛇行する川があるとする。曲がりくねりつつ、順々に、流れるべきように流れるのが道理である。

その順序を嫌って、手っ取り早く先へいこうとすればどうなるか。蛇行を無視して直進するほかない。堤防を破壊し、溢れかえって進むほかない。

無窮に流れ、周囲を潤し、万物を育むのが川の徳であるのに、周囲を害して徳を損なう。

 

もちろん、川には意思がない。ただ道理があるばかりだ。蛇行を嫌って堤防をぶち壊すことはない。意思を以て周囲を害することはない。

川が溢れる場合、それはそれで、その時における「順」なのであって、無窮なる流れの一コマである。

人間の立場で見れば害が大きいけれども、例えば川の中に地上の栄養が流れ込むとか、川底の土が攪拌されるとか、大自然にとっては徳になるところもある。

 

しかし人間には意思がある。蛇行を嫌って堤防をぶち壊し、誰も得をしない。そんなことが、実際にある。

自ら学ばず、判断せず、経営コンサルタントなる者に任せ、経営効率を重視し、順序を無視し、何人も死んでしまうような大事故を起こす。こういうことが実際に起こる。

 

だから、君子は順序を守り、怠らず、無窮に勉めるのだ。そうでなければ、自分の徳を損ない、人を害することにもなる。

めちゃめちゃな学問をして、おかしな活動に取り組み、周囲に害を与える。そういう人がいる。物事の順序、道理を弁えないからそうなるのだ。

人を害するような学問が、正しいわけがない。正しくないものは必ず滅びる。無窮ではありえない。

 

道の本体とは

さて、伊川先生の仰る「道の本体」とはいかなるものであるか。私なりに色々考えてきたことをまとめてみたい。

 

君子終日乾乾、夕惕若

川の流れは順である。君子の学問にも順序ある。

一歩一歩着実に、段々と先へ、怠らずに進んでいくことが順である。

 

単に順序を守るだけならば、そう難しくない。ただ守ればよい。

しかし、順序を守るだけではいけない。無窮であるには、順序を守り、なおかつ怠らない。二つを兼ねる必要がある。

 

易の乾の卦に、「君子終日乾乾、夕惕若」とある。これで無窮がよく分かる。

君子は一日中怠ることなく勉める。日中大いに働き、学び励む。

日が暮れても、それで終わりということはない。曾子の三省のごとく、夕は夕で恐れ慎み、日中の取り組みに欠けるところはなかったか、道に外れることはなかったかと反省する。

昼も夜も勉めてやまない。君子はそうあるべきだ。川の流れのように、君子の歩みは窮まることがない。

 

だから、子路が政事の要諦を問うた時、孔子は「これに先んじこれに労せよ。倦むことなかれ」と教えた。

率先して力を労し、心を労し、民のために勉めよ。ただそればかりである。その一念でどこまでも勉めよ。君子の歩みに窮まり無し。倦み怠ることのないようにせよ。

 

孔子は、「怠る」ということが大変お嫌いであった。

宰我の昼寝を責めたことからも良く分かる。

孔門において、怠ることは常に戒められた。怠らず、窮まりなく勉めることが重んじられた。

 

怠りの弊

怠れば道に外れる。順序を守らず怠る場合はわかりやすいが、順序を守って怠る場合、弊害が一層甚だしいように思う。

 

順序を守っているだけに、本人は正しく勉めているという思い込みがある。

怠りながらではあるけれども、順序は守っている。気の向いた時にはやっているから、少なくともやった分だけ仁に近づくだろう。そういうことを10年も20年も続ければ、なかなか長く無窮に勉めているのであって、まあ悪くはなかろう。

しかし、怠りの弊はそんな甘いものではない。

 

決められた順序であっても、気が向いたらやる、向かねばやらないというやり方は、順序を守っているが怠っている。怠りながら10年も20年もダラダラやったところで何にもならない。

流れが切れ切れになっている。それでは、川の流れとはいえない。進歩もない。

 

進歩はないが、本人としては10年も20年もやったという自負がある。実際、知識だけは無駄に多かったりする。

私は論語読みの論語知らずです、私はまだまだ未熟です、そんなことを言って謙遜ぶって得意になっている。

無窮ということをはき違えるから、そういうことになる。

他の分野の人から、「儒者のいう『論語読みの論語知らず』はどうも臭い」などといわれることになる。

確かに臭いに違いない。腐臭がするだろう。腐儒であれば腐臭がする。

 

道は無窮であるから、10年でも20年でも100年でも勉める。どこまでも怠らずに勉める。毎日毎日、一歩一歩、怠ることなく勉めてこそ、川の流れに一致する。

川は流れる。先へ先へ流れてゆく。流れた分だけ先へ進まなければおかしい。流れたのに先に進まないということはありえない。

君子の学問はそうである。1年やったら1年やっただけ、10年やれば10年やっただけの進歩があるべきだ。無窮に勉めるならば、進歩もまた無窮である。

 

真面目と不真面目

人間の心には仁もあれば不仁もある。不仁を抑え、仁を発するように努力するのが君子の歩みであるはず。

基本的に不仁であるところへ、学問して仁を心掛ける。これは誰しも同じで、悪いことではない。

しかし、ここに怠りがあると悪い。

 

やったりやらなかったりする。これは切れ切れであり、その時その時で窮まりがあって無窮とはいえない。

君子終日乾乾、夕惕若。たった一日でみても、昼は勉めて夕は休むならば無窮とはいわれない。思いつきでたまに勉めるならば、なおさら無窮とはいえない。

それはただの不真面目である。

 

真面目は「間締め」であり、不真面目は「間抜け(不間締め)」である。

気が向いた時に仁に勉める、それ以外は不仁。これを仁と不仁との連続性で見ると、不真面目・間抜けの学問はこんな具合になる。

不仁・不仁不仁不仁不仁不仁不仁

 

怠ることなく勉めて、不仁を減らしていくべきである。しかし、無窮を曲解し、切れ切れの姿勢で臨むならば、なかなかそうもいかない。

怠りなく真面目に勉めてこそ、

仁・・・・・・・・・・

となる。どこまでも連続している。無窮に仁である。こうなるために、怠ることなく真面目に勉めて窮まり無い。それが君子の歩みであり学問である。

 

道は無窮

無窮に勉めるうちに、やがて「心の欲するところに縦って矩を踰えず」となる。

川の流れは無窮である。しかし、川は無窮に流れようと思って勉めているのではない。勉めずして無窮である。

孔子七十歳の境地もこれである。聖人の徳は天の徳と同じい。

聖人の道の本体は無窮であるとは、こういうわけである。

 

まとめ

伊川先生は、この問答で「では道の本体とは、無窮とはなにか」ということを仰っていないけれども、私はこんな風に考えている。

 

このように考えると、道を歩むということは大変なことであり、誰にでもできることではなくなる。

これではほとんどの人が脱落するではないか。そんな風にも思える。

之に語つて惰らざる者は、其れ回なるか。

優れた人物が多かった孔門においても、孔子が語るのを聞いて、怠らずに勉めたのは顔回くらいのものであった。

 

しかし孔子は、誰にでもできるように教えを立てられた。ほとんどの人が脱落するようなことは教えない。

各々の分に応じて、精一杯に勉めることが重要なのである。正しく学問し、道を知り、我が為すべきことを思い、自ら画ることなく、怠ることなく、窮まることなく勉めなさい。

そういうことであろうと私は思う。

 

真面目な姿勢で怠らずに生きてゆく。

人間だから、怠ることも、不真面目になることもあるだろう。しかし孔子の教えを奉じる者として、それではいけない、安逸をむさぼってはいけないという意識が常にある。

時に苦しみ、泣きながらでも、孔子に似たい、真面目でありたい、怠惰は嫌であると思って一生を貫く。これは君子の歩みといえる。

 

無窮とはどういうことか、大体こういうことである、自分なりにそう思うところがあるとないとでは大違いだ。道に対する考え方が大きくなるし、日々の勉めも必ず良くなる。

「道とは無窮」と言いながら、無窮がなにか今一つ分からない、自分なりに思うところがない、これではいけない。

伊川先生はそう仰ったのではないか。

 

 

ここでお答えしたことは私自身で考えたことであって、伊川先生の考えとズレているかもしれない。

しかし、このズレは左右に大きくズレるものではなく、主に上下のズレであると思う。ズレがあるならば、私の方が浅いというズレでありましょう。

多少の参考にはなると思います。

論語の建て前

先日、以下の質問に対して、①だけお答えして②③は後日、とした。

shu-koushi.hatenadiary.com

この質問は、ロシアのウクライナ侵攻を受けたものであったという。

あまり触れたくない内容ではあるけれども、再度考えてみたところ、やはりお答えすべきであったと思う。

特に、「暴力には暴力で」という考え方は危うい気がします。

 

論語の建て前

まず前提として、孔子は過激なことを語らなかった。ご自分が語ったことによって、人が道を誤ることを恐れた。

 

孔子の慎み

孔子家語の観思第八に、こんな話がある。

子貢が尋ねた。
「死者にも知覚があるでしょうか」
孔子は、
「もし私が『死者にも知覚がある』といえば、孝心の深い人は悲しみのあまり健康を損なうだろうし、葬儀を立派にしすぎて生活が破綻する恐れがある。
かといって、『死者には知覚がない』といえば、孝心の薄い人は親の死体を埋葬しなくなるだろう。
子貢よ、そんなことは知らなくてよい。いずれ死ねば分かることだ」
と仰った。

孔子が教えを立てるにあたり、聞く者に与える影響をよく考え、慎んだことがよく分かる。

 

怪力乱神を語らず

論語で言えば、述而第七。

子、怪・力・乱・神を語らず。

孔子は、奇怪なこと、力(特に暴力)のこと、人倫の乱れ、鬼神のことを語らなかった。

 

怪を語らず

科学が発達していない古い時代、奇怪なことがよく語られた。古い本を見ると、そういうことがよくある。左伝にも色々載っている。しかし孔子はそれを語らない。

 

力を語らず

次に力。怪を語らないのだから、怪力も語らない。旧約聖書のサムソンのような人間のことをお話しにならない。

暴力についても語らない。暴力は暴力を以て制する、といったことを肯定しない。

 

乱を語らず

乱も語らない。乱とは人倫の乱れである。臣が君を弑すること、子が父を殺すこと、そういうことが乱である。

もちろん、後述の通り儒学では「権道」という考え方もある。常なる道を以て如何ともしがたい場合には、常ならぬ道を以て処する必要がある。それは孔子もご存じである。

しかし、孔子の教えは常道を教えるものであって、権道を教えるものではない。

だから孔子は、孟子のように「無道な君は討つべし」といった過激なことを仰らない。革命思想を肯定しない。

これは孔子孟子の極めて大きな違いである。論語だけではなく、他の書に出てくる言葉を見ても、孔子は革命を善しとするようなことは一度も仰っていない。

色々な事情があるにせよ、乱は乱である。臣が君を討つことは、順と逆で言えばやはり逆である。そのようなことは教えない。

 

神を語らず

そして神、鬼神のこと。

古い時代の人々は、現代からすると考えられないほど、信仰心が篤かった。孔子が語ろうと語るまいと、人々は鬼神に惑った。神の祟りがどうであるとか、この神を祭れば福を得るとかである。

孔子が鬼神を語れば、その惑いが一層深まる恐れがある。

だから孔子は「鬼神は敬して遠ざける」「鬼に非ずして祭るは諂いなり」などと仰る。鬼神とどう向き合うかを語らない。むしろ遠ざけよと仰る。

 

戦について

同じく述而篇に曰く、

子が慎む所は、斎・戦・疾。

孔子は三つのことを慎んだ。斎戒、戦争、疾病である。

 

斎を慎む

斎とは斎戒。心の邪を払うこと。

分かりやすいのが物忌みである。神道では潔斎などという。いまでも、心掛けの良い神主は大きなお祭りに当たって、酒・煙草を断つ人がいる。四つ足(牛や豚など、四本足で歩く動物の肉)を食べない人もいる。

あるいは禊。冷水で身を清める。

 

もっとも、斎戒とは心の邪を払うことであり、内面的なものである。内面的な慎みが外部に表れた場合に物忌みや禊になるのである。

孔子も斎戒を重んじた。このことは、郷党第十を読むと一層よくわかる。

 

疾を慎む

順序が前後するが、疾も慎んだ。これは病気のことである。身を健やかに保つ、これも孔子の心掛けであった。

 

孔子の教えを読むと、時に「死」ということがある。しかし、死と向き合うことを述べたのではない。

あくまでも人間世界を中心に、現実的な教えを立てる。人間を尊重し、道を立てる。これが孔子の建て前であり、尊いところである。

 

天地人を三才とするのも、同じわけである。

天と地は極めて大きい。それに比べると人間は非常に小さい。しかし天地人といい、三才として並べる。

人間は小さい存在であるけれども、人間という立場において、天地の徳を我が徳として、自らを重んじ、他を重んじ、現実の人間の世に向かい合ってゆく。

天があり、地があり、世界が成り立っている。人間の世界もこれに含まれる。その世界でどう生きるかを聖人は教える。現実の、人間の世界を中心として教えを立ててある。儒学以外では、人間を極めて小さく、無力なものとして、天地を中心に教えを立てることもあるけれども、儒学はそうでない。あくまでも人間があり、下には地、上には天、の三才で成り立っている。

 

また、元をたどれば人間はもちろん、万物全てに天と同じ徳がある。無極から太極、天地、万物と分かれており、元は一と考える。

こう見る場合、人間にも天の徳と同じ高大なる徳がある。人間は小さいようだが、徳においては天地と比しても引けをとらない。天地人三才と捉えて差し支えない。

 

孔子の教えは宗教ではない。私などは孔子への絶対的な信頼があり、信仰に近いものがあり、宗教的な趣があることも自覚している。しかし、一般にいう宗教とは明らかに異なる。

現実と人間を尊重して教えを立てる。天国や極楽を行くためにはどうするか、そういう考え方は、聖人の教えではとらない。

仁義のために命を懸けることもあるが、それはやむを得ない場合に限ってそうなのであって、基本となる考え方ではない。

なるべく健康に長生きをして、分相応に、現実の人世に貢献していこうとするのが聖人の、孔子の建て前である。

 

戦を慎む

そして戦。孔子は、戦争についても非常に慎重であった。これは、力や乱を語らなかったことからも良く分かる。

 

司馬法にもある通り、儒学では仁義に基づく戦を肯定する。司馬法に曰く、

戦を以て戦を止むれば、戦ふと雖も可なり。

例えば暴虐なる君主が無道の戦を起こした。土地を広げたい、富を得たい、そんな私利私欲から戦を起こした。

このような無道な戦は人民を苦しめる。不仁であり不義である。そのような暴虐を止めるためであれば、戦ってよい。

 

権道を考える

同時に、司馬法は重要なる教えを立てている。こうも書いてある。

権は戦より出づ。中人より出でず。

 

権道とは

戦はあくまでも権道である。戦をすれば人が死ぬ。仁は生々の徳、育む方の徳であって、殺す方は不仁である。戦は本来道に反する。

しかし、非常の場合にはそれが却って道に適う場合がある。それを権道という。

権は戦より出づ。権とは権変であり、臨機応変であって、あくまでも一時の用に過ぎない。戦を起こす場合、権が前提でなければならない。

これが大変難しい。少し間違うと道を大きく外れ、一層大きな不仁を犯すことになる。

 

孔子と権道

論語憲問篇で、孔子は魯公に斉を討つよう進言している。

これは逆臣・陳成子が斉の簡公を弑したためである。そのような大逆を見過ごしてはいけない。斉は魯の隣国である。道を正すために、即刻討つべきであると進言した。

魯公はこの言を容れなかったが、孔子の建て前が見てとれる。

あくまでも、道を正すために戦を起こすのであって、私利私欲や暴力によって起こすのではない。これも権道である。

孔子は戦を憎んだに違いない。しかし、権道による戦を認めていた。

 

権道に拠らねば無道

戦争は、ほとんどの場合に利権が絡んでいるように思われる。これは、大義を隠れ蓑にして戦を起こしているのである。断じて権道ではない。

もちろん、戦を起こす人の中には、大義を重んじ、真の意味で権道を為そうとする人もいるだろうが、大体はそうでない。

十字軍がそうである。聖地奪還という目的があったわけだが、純粋な宗教的理想を以て起った人より、利を求める人の方がずっと多かった。だから、カトリック諸国の連合がうまくいかず、200年もかけて何度も戦って、結局に失敗に終わった。

三国志における反董卓連合も大体同じい。

現代における戦争も、大抵は権道とはいえぬものばかりであろう。

権道によらない戦、これを無道の戦という。

 

中人の権道は誤る

学問道徳に努め、常道を修めた聖人賢人であって、初めて権道を用いることができる。

常道を修めていない普通の人、中人が権道を用いることはできない。中人が下手に権道を用いると必ず誤る。

 

孔子の慎みを思う

孔子の教えは、中人を導くものである。論語もそうである。

権道を教えない。権道も時には必要であることを否定するのではないが、常道を一層重んじる。

だから、論語には戦の方法はもちろん、身内が害せられた場合の報復などについても一切書かれていない。

それは権道であって、中人の考えることではない。中人にそのようなことを教えると、道を誤るもとになる。

礼記では復讐についても教えているが、やはり常なる教えとは言えない。

 

「大切な人が凶事に見舞われた場合の処し方」は、論語には書かれていない。

「目には目を、歯には歯を、暴力には暴力で返す」という考え方も、孔子はとらない。暴力的であり、過激であり、慎むべきところであろうと思う。

 

また、それを論語から得ようとする必要も、あまりないように思う。

権道・非日常を考えるよりも、それ以前の常道・日常を重んじるのが儒学の建て前であり、論語が教えるところである。それが行き渡れば権道を用いる必要もなくなるのが道理である。

易など読んでも、権道の必要性を説きつつも、その必要がないように常を慎む姿勢で一貫している。

 

まとめ

私自身は、常道を修めたとは思わないので、権道に手を出せば失敗すると思っている。だから、強い興味を抱いているけれども、今はまだ兵書を読むことも避けています。

そんな私が、「身内が害せられたらこうすべきです」などと、権道を語るべきではないとも思います。

 

したがって、今回の質問に対して具体的に「こうすべき」といったことはお答えできません。

強いて言えば、「そもそもこの質問にあるような姿勢で論語に対するべきではない」と考えます。

孔子が慎んで教えを立てられたことを思い、論語を読む我々としても、権道は遠ざけて常道に邁進するのが良いのではないでしょうか。

論語を修めて常道に通じたならば、権道もおのずとわかってくるのではないかと思います。

報われない努力について

以下のような質問を受けた。

努力が報われぬ不幸について、である。

質問を受けてから。随分と日が経ってしまった。

①はすぐにでもお答えできたが、②③に向かい合うのに時間を要したためである。

 

このような話題は、書きたくありません。

私の場合であれば、親や兄弟が凶事に見舞われた場合を想定するのであって、考えていると胸がムカムカして気持ち悪くなってくる。中々、文章を書くどころではない。

したがって②③については、簡単にお話しできる機会を待つとして、とりあえず①だけお答えします。

 

 

 

陳蔡の災難

「一生懸命が報われない、その理不尽について論語にはどのように書いてあるか」

とのことだが、これはツイッターでも何度かお話しした通り、孔子の御一行が陳蔡間に窮した話を見るとよくわかる。

衛霊公第十五に、以下の章句がある。

衛の霊公れいこうじん孔子に問ふ。孔子こたへて曰く、俎豆そとうの事は則ち嘗て之を聞く。軍旅の事は未だ之を学ばざるなり。明日遂にる。

ちんに在り、糧を絶つ。従者病み、能くつ莫し。子路いかまみえて曰く、君子亦た窮すること有るか。子曰く、君子もとより窮す。小人窮すれば斯にみだる。

 

暗君・霊公

孔子が衛におられた。当時、衛の君主は霊公であった。

霊公は暗君であった。衛に来た孔子一行を庇護したが、それは蘧伯玉きょはくぎょく顔讎由がんしゅうゆうといった賢人が孔子と親しかったためと思われる。

孔子の徳を尊んでそうしたのではない。むしろ軽んじるところがあったようだ。それがこの章句によく表れている。

 

霊公が孔子に、陳を問うた。陳とは当時の小国・陳のことではない。古くは陣を陳と書いた。つまり霊公は陣立てのことなど、軍事を孔子に問うたわけである。

霊公は暗君である。無道の君が戦を起こすと、大抵は良い結果にならない。人民が苦労を強いられる。孔子としては「あなたに軍事のことはお話ししたくありません」とお考えになるが、それを直接言うのも憚られる。

元より霊公の方でも、「学問があり礼に詳しい孔子も、さすがに軍事のことは分かるまい、ひとつ聞いてみよう」くらいの考えである。そこで孔子は、

「私は俎豆(祭器、つまり礼のこと)は学んでおりますが、軍事のことはまだ学んでおりませぬ」

とお答えになった。

 

軍事にも通じた孔子

孔子は、軍事のこともよくご存じであった。礼記の礼器篇には、

孔子曰く、我戦へば則ち克つ、其の道を得たればなり。

孔子が仰った。私は戦えば勝つ。正しい道を知っているからである)

とある。

また、孔子家語の相魯第一には、孔子が反乱軍と戦ったときのことが書かれている。詳しくはまたの機会にするが、この時には孔子が采配を取って反乱を鎮圧している。

決して戦を知らないわけではない。しかし、無道の霊公に軍事のことを話したくないと考え、「学んだことがありませぬ」としてやり過ごした。

 

孔子の去就

その翌日、孔子は衛を去った。

礼儀のことは知っているが軍事のことは知りませぬ、ここには孔子が霊公へ礼を勧める意図が含まれている。しかし、霊公にはそれが分らなかった。

用いられない以上、衛に留まることはできない。だからすぐに衛を去った。

孟子は、孔子の進退の鮮やかさを称賛している。孟子では、孔子が斉を去った時のことを以て称賛しているが、衛を去る時のこともまた同じ。

 

陳蔡に窮する

その後、孔子は陳の国へ往かれた。孔子家語には、孔子は楚の昭公に招かれたため、陳を出て楚に向かったとある。その時、陳蔡間で苦難に見舞われた。

この背景は、本によって異なる。

当時、楚と呉が激しく争っており、それに陳・蔡が巻き込まれた。孔子の一行は誤解を受けて呉の軍隊に包囲され、糧道を絶たれたという。

また孔子家語の在厄篇には、陳・蔡両国の大夫たちが、「孔子が楚に任用されたら、楚がますます強くなって我が国は危ない」と考え、孔子たちを包囲したとある。

 

七日食わず

ともかく、孔子御一行が陳蔡間で困窮したことは間違いない。

これは一行にとって大変な禍であった。論語には、単に「陳に在り、糧を絶つ」としか書かれていない。しかし、孔子家語在厄篇や説苑雑言篇には「絶糧七日」、荘子天運篇にも「七日不火食」で、七日食を絶たれたとある。

従者は病んで立ち上がれぬほど。とにかく大変な苦労であった。

 

子路の慍り

この時、子路が慍って孔子に問うた。

慍、これは怒とは違う。怒は、腹を立てている様子を広くいう。しかし慍は、憤りに耐えかねて怒るのである。

子路孔子を慕う気持ちが人一倍強く、孔子のためなら死んでも良いと思う人であった。

孔子の仰ることは絶対である。大抵の苦労は苦労と思わずに耐えた。

しかし、今回ばかりはおかしい。正しい道を求めている我々の一生懸命がなぜ報われぬのか。なぜこんな苦労をしなければならないのか。

徳があれば、周囲もその徳に感じる。徳は孤ならず。それに、孔子が説く「道徳」とは天の徳である。天道天理、天の徳を重んじていれば、利しからざるはなし。先生はいつもそう仰る。

しかし今回ばかりは、先生の仰ることは間違いではないか。

 

その思いに耐えかねて、

「君子亦た窮すること有るか」

と詰め寄った。

君子がここまで窮することはありますまい。しかし我々は実際に窮している。もはや死が近づいている。これはどういったわけでございますか。

 

荘子を読むと、このとき孔子は静かに琴を弾いていたという。

それに子路が慍った。先生が礼楽を重んじるのは知っていますが、琴を弾いている場合ですか。先生が琴を弾いている間にも、命の危ない者もおりまする。

 

子路を諭す

慍る子路を諭して、孔子は仰る。

「子曰く、君子固より窮す。小人窮すれば斯に濫る。」

君子とは窮するものだ。君子だからこそ窮するのだ。

お前の云う通り、君子は大道(天道天理)に則って生きる。それが何より大事であって、そのためには命も捨てて顧みない、それが君子である。

大道に則って、それを断じて枉げない。窮することがあれば、堂々と窮するのが君子である。

禍を逃れるために大道を枉げることがない。大道を枉げ、権謀術数を以て難を逃れるのは小人のやることである。小人は困窮すれば濫れる。君子は違う。君子だからこそ窮するのである。

 

仁者・智者も窮する

孔子家語には、子路を諭す言葉が詳しく載っている。以下、意訳。

お前は、仁者や智者は必ず人に信用され、窮することもないと思っているらしいが、そうではない。仁者が必ず信用されるなら、なぜ伯夷と叔斉は餓死したのだ。智者が必ず信用されるなら、なぜ比干は胸を割かれたのだ。

正しい道を歩んだからといって、いつもうまくいくものではない。人の幸不幸は時世によって左右されるからだ。

君子が学問を積み、道徳を磨き、よく考えて世に処したとしても、時世によっては報われないことがある。そんな人は古来いくらもいた。どうして私たちだけが困窮しないといえよう。

蘭という花は、森の奥深くで花を咲かせ、香気を放っている。蘭は、人に知られないからといって、香気を漂わせないことはない。君子も同じである。一生懸命が報われるかどうかに関係なく、学問し、道徳し、困窮しても節を曲げない。

そして仰る。

「之を為す者は人なり。生死は命なり。」

(幸不幸に関係なく)学問道徳に努めるのは人間である。しかし、その人間の生死は天命である(報われるかどうかは問題ではないのだ)

私はこの言葉が好きである。

 

子貢を叱る

孔子家語には、これに続いて子貢との問答も載っている。

孔子子路を諭した後、子貢を呼んだ。子貢も不満を抱き、孔子にこう言った。

先生の道は大きすぎるのです。だから一般の人々には受け入れられないのです。先生、もう少し低い所に合わせてはいかがですか。

それを叱って、孔子は仰った。

腕の良い農夫は、作物をうまく植え付けることができる。しかし、必ず豊作になるわけではない(作物の実りは天候や色々なことに左右される)

学問道徳を修めた君子であれば、道を人に示すことが出来るだろう。しかし、それが必ず世の中に受け入れられるとは限らない。

ましてやお前はまだ道を十分に修めてもいないのに、社会に受け入れられたいと考え、水準を下げようなどと言っている。

子貢よ、お前の志は小さい。

 

子路と子貢の違い

子貢への言葉は、子路への言葉より厳しい。

子貢も、孔子を慕う気持ちは強い。しかし、子路と子貢の決定的な違いは、思いの純粋さにあるのではないか。

子路は道を枉げようとしたのではない。道を篤く信じているからこそ、困窮することがただただ悲しく、憤りに耐えられなかった。

一方、子貢は、少々道を枉げてはどうかと孔子に進言した。それを孔子は「お前の志は小さい」と叱った。

 

子路への励まし

孔子は、道を信ずる心が篤い子路を憐れんだのであろう。

子路は、孔子の教える道こそ正しい、間違いのない道であると篤く信じている。信じているが困窮した。篤く信じるからこそ、それが悔しい。剛毅な子路には猶更悔しい。

孔子はそんな子路を憐み、励ましたものと私は思う。

「私もお前も道を篤く信じている。だから窮しているのだ。それでよい、私たちは何も間違っていないのだよ」

 

報われないことは問題でない

ここまでの内容から、「一生懸命が報われないこと」について、孔子がどのようにお考えであったか、凡そ分かったと思います。

報われるか報われないかは問題ではないのです。「報われること」を重く考えると、相対的に「報われないこと」がおかしい、という話になってしまい、子貢のように、理想を少し低くしては…ということにもなりかねない。

それでは志が低い。報われないこともあって当然、報われるからやる、報われないからやらないというものではないのです。

 

己れ能無きを患ふ

これは何も、陳蔡に困窮したような、大変な場合に限ってそうなのではない。いつだってそうなのです。

論語憲問篇にこうある。

子曰く、人の己れを知らざるを患へず、己れ能無きを患ふ。

(人が自分を知ってくれないと患えるのではいけない。それよりも、自分に知られるだけの学問や道徳や才能がないことを患えよ)

 

なぜ舜は偉いか

また、孟子は舜を讃えてどう仰ったか。尽心章句に、このようなことが書いてある。

舜がまだ堯に見いだされないころ、山の中にいて木や石の間に暮らし、鹿や猪を友にした。とても優れた人とは思われなかった。

しかし舜が人と違ったのは、大変に善を好んだことである。善言を聞き、善行を見れば、自分もそうあろうと努めた。その情熱は、誰にも止めることが出来なかった。

堯に見いだされる前、舜は田を耕したり、木を伐ったり、何でもない仕事をしていた。

しかし、善を好む気持ちは誰よりも篤かった。何でもない仕事をして、それが認められようと、認められまいと真面目に務めた。

一生懸命にやって苦労することがあっても、報われようと、報われまいと、善を求める気持ちは全く変わらなかった。道を枉げることはなかった。


その後、堯に見出された政治を執るようになると、鯀・共工驩兜三苗をはじめとする悪人たちを朝廷から追い出すなど、快刀乱麻を断つ働きを見せ、世をよく治めた。

卑しかった頃の舜が、卑しいからといって善をなさない、そんな人間であったなら、地位を得てからもこのようなは働きはできなかっただろう。

地位が高くとも低くとも、一生懸命が認められようと認められまいと、一貫不惑で努めたところに舜の偉さがある。

孟子は、舜をそのように讃えた。

 

まとめ

一生懸命にやっても報われないことのほうが多いでしょう。また、報われるとしても、長い道のりになるでしょう。

明治天皇の御製にも、


思ふことつらぬかむ世をまつほどの

月日はながきものにぞありける


とあります。

簡単に報われるなら、それは大したことを成したのではありません。それでも摯々として努めて已まない。死して後、ようやく已む。

 

論語にはこのように教えてあります。

また今回の記事でもわかると思いますが、論語と合わせて、孔子家語も読むことをおすすめします。

目を保つ良法

視力の低下に関するツイートを見た。

学者はたくさんの活字を読む。毎日毎日、長時間読む。すると眼が疲れる。

最近はパソコンやスマホなどの機器で文字を読むことも多い。単に紙の本を読むより目が疲れるだろう。

そのような生活を続けて年を取ると、目が見えなくなる。失明に近い状態になる人もいる。

すぐに思いつくのは、大漢和辞典を編纂した諸橋轍次先生である。

無理を重ねた結果、右目を失明、左目も光を感じるだけ、といったほどに悪くされた。

 

学問する者は、視力の低下をある程度まで受け入れる必要があるだろう。

しかし、視力が低下すれば生活が不便だ。私も極端に悪く、眼鏡なしでは生活できない。

また、失明は恐ろしい。本が読めなくなる。学問に差し支える。

 

ではどうするか。先儒が教えてくれる。

 

貝原益軒先生曰く

まず貝原益軒先生。

益軒先生は江戸時代の儒学者。経学だけではなく、教育や医学でも大きな功績を残された。

先生の著書『養生訓』には、平生から健康を保つ心掛けが色々述べられている。

医学が進んだ現代においても、役に立つものが少なくない。

 

養生訓には、目の健康についても述べてある。曰く、

朝ごとに、まづ熱湯にて目を洗ひあたため、塩湯を以て目を洗ふ事、左右各十五度。その後別に入れ置きたる椀の湯にて目を洗ふべし。
目あきらかにして、老にいたりても目の病なく、今八十三歳にいたりて、なお夜、細字を書き読む。これ目をたもつ良法なり。

ここのくだりは、歯の健康と併せて述べてある。朝、歯を洗い、目を洗うのが先生の習慣であったようだ。目に関する情報だけを抜粋した。

 

根本通明先生曰く

次に、根本通明先生。

根本先生は幕末・明治期の儒学者。公田連太郎先生の師。

特に易の大家として知られ、「周易は根本なり。根本通明は周易なり」と称された。

 

先生は若いころ、学問で随分無理をなさったらしい。競って学問した結果、同窓が数人亡くなっている。

沢山の書を読んだであろう。眼も悪くなるのが当然と思われるが、先生の目はいたって健康であった。

先生の写真をいくつか見たが、眼鏡さえかけていない。その秘訣は、益軒先生と同じく目を洗うことにあった。

先生83歳の談話に曰く、

私はこの通り目も悪いことはない。細かい物を見るに一向差支はない。
毎朝円い桶に水を一杯汲んで、その水の中へ首までズッと入れて眼を開け、眼の中へ水を入れて洗ふのだ。そのためか、私は眼を病んだことがない。

益軒先生はお湯で目を丹念に洗った。

根本先生は冷水である。桶の中でざぶざぶと洗う。先生は豪傑であったから、その姿が浮かんでくる。

 

安岡正篤先生曰く

昭和の思想家・安岡正篤先生。

先生は陽明学の大家として知られたが、「〇〇学者」とカテゴライズされることを嫌ったので、あえて「儒学者」とも「陽明学者」ともいわず「思想家」とした。

安岡先生も、生涯を通じて多くの書を読んだ。普通の儒者と違うのが、読む範囲の広さである。西洋哲学や政治経済なども含め、広く通じている。講義録など読んでも、話の内容が実に多彩である。

やはり目を悪くしておかしくないが、安岡先生の目も至って健康であった。

眼鏡をかけていたから、近眼であったと思われる。しかし老眼鏡は使わなかった。

 

安岡先生の養生法は、根本先生とよく似ている。ある本に曰く、

私は朝起きると、顔を洗う時に必ず冷水に顔をつっこむことにしております。

これが一つ楽しみで、私は一生涯髪を伸ばさない。

つぎに水の中で目を洗うのです。開け閉てしたり、左右に動かしたり、あるいは上下に動かしたりして眼球の運動をする。

これが一通り済むと、今度は上から手で揉む。

眼科の医者にいわせると、これくらいよい目の養生法はないそうです。

また別の本に曰く、

本を読む者は眼を洗わねばなりません。眼を丈夫にするには洗うに限ります。

清水の中に目を開閉し、あるいは水道の口にゴム管をつけて、水圧を利用して目を洗う。瞼の上からでもよろしい、二、三分ずつ両眼を水圧で打たせる。

 

ツイッターでお付き合いしている方の多くは勉強家であり、本をよく読んでいる。

目の健康を気にする人も多いかと思う。

この記事の多くはツイッターに載せたが、ツイッターではすぐに情報が流れてしまうので、ブログにまとめた次第。

参考になれば幸いです。

性善説と性悪説

儒学では、性善説せいぜんせつ性悪説せいあくせつがしばしば問題になる。

孟子荀子を読み、どちらが本当であるか迷い、孔子はどうであろうかと論語をひもとく。

しかし論語の教えは、性善説とも性悪説とも断じかねる、どちらとも取れる言葉が多く、ますますわからなくなる。

 

性善説性悪説のどちらが正しいか、これは結局のところ視点の違いで、考えようによってどちらでもあり得る。

しかし私は、強いてどちらかといえば論語の説く所は性善説であると思うし、孔子はそのようにお考えであったろうと思う。

だから私は、性善説に賛成である。

 

性善説性悪説に関して質問を受けたことでもあるし、今回はこれを考えてみたい。

 

 

質問は以下の通り。

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仁者はなぜ偏らないか

まず、里仁篇の章句から。

子曰く、ただ仁者のみ能く人をみし、能く人をにくむ。

孔子が仰る。

善い者を善いとして褒め、また悪い者を悪いとして悪む。これができるのは仁者だけである。

 

好は「好む」というより「みする」のほうが良いと思う。よみする。善を善として褒めること。

悪むは悪を悪として憎むこと。

偏ることなく、これを正しく判断できるのは仁者だけであるという。

 

なぜ仁者にこれができるか。

それは仁者だからである。仁とはそういうものだからである。

 

人は天徳を稟けて生まれる

儒教の根本的思想では、人は天から生まれたものとする。

これは論語では少しわかりにくい。老子や易を読むと良く分かるが、ここでそれをお話しすると大変込み入った話になるので避ける。

簡単に言えば、まず無極というものがあった。それが太極となった。

そこから天と地、陽と陰の両儀が生まれた。

それが大きな陽と小さな陽、大きな陰と小さな陰の四象に分かれた。

さらに八つの卦に分かれ、それらを二つ重ね合わせた六十四卦も生まれた。

 

天地が生まれ、火や水や山など、世の中を構成する色々なものが生まれた。さらに小さくなると草や木や虫や鳥や獣や人が生まれた。

元をたどれば全て無極から分かれたものであり、全てに同じ徳がある。天と同じ徳を持っている。当然、人間にも天徳がある。

儒教ではこのように考える。もっとも、これは儒教だけではなく、一切衆生悉有仏性というのもこれと大体同じであろうと思う。

論語でもなんでも、深く理解するにはこれは大切なところなので、ぜひ覚えておいてください。

 

天徳とは中正の徳

人間には天徳がある。忠とか仁とか言うのも、結局は天の徳を様々に表現したものである。

中庸とは中なる徳、天の中正の徳である。天の中正の徳そのままの心、これを忠という。忠は偏らない。ただただ中正である。

中正であれば、何事も誤らない。

人を助けるべき場合に、助けるべきように助ける。有難迷惑にならない。

人を助けるべきでない場合には助けない。それで間違いがない。

仁に過ぎれば却って不仁になるが、それがない。至って仁である。忠も仁も同じとはこのようなわけである。

 

中正であれば人付き合いに偏りがない。

偏らず正しいのだから、善い人は善いとして嘉するし、悪い人は悪いとして悪む。

仁者の嘉する・悪む、これは中正の徳によって善い・悪いと捉えるのである。

 

仁者には私欲がない

一点でも欲があればこうはいかない。欲があれば、単なる好き嫌いになる。

人を見るとき、この人と深く付き合えば利益になりそうだ、この人は自分を気分よくしてくれる、そんな理由で好む。

あるいは、この人は自分にとって不利益である、嫌なことを言うやつである、などとして嫌う。

並みの人はこうである。欲があるからだ。

仁者であって、はじめて人を本当によく見て、嘉して交わったり、悪んで遠ざけたりできる。

それも全て、仁者には仁という天の徳があり、天には私欲がないからだ。

 

性善説性悪説

これは性善説性悪説か。

見方によってどちらともいえる。

 

仁者は偏らない。

これを単に「人間には天の徳が最初から備わっているからだ」と考えるなら、性善説といえる。

しかし「人間の本性は悪である(欲があり弱い存在である)から、どうしても偏ってしまう。しかし努力を重ねて仁者になれば、その偏りはなくなる」と考えるなら、性悪説である。

 

克己復礼

次に顔淵篇から。これは以前書いたことがあるので、極く簡単にみてゆく。

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天の徳をそのまま稟けた人間本来の心には私欲がない。仁であり忠であれば私欲はない。

しかし、人間には肉体がある。本来の精神は天徳そのままであり私欲もないが、肉体(己)には欲がある。珍しいものを見たい、耳ざわりの良い言葉を聞きたい、うまいものを食べたい。

肉体の欲に流されると心が汚れる。本来の精神が曇り、埋もれ、健全な発達ができなくなる。

人間の心にはそういうところがある。肉体の欲にとらわれると、正しい礼儀もなくなる。

 

しかし身(己)の欲を去れば、礼にかえることができる。

礼とは仁の発露である。克己復礼で礼に復れば、それはもう仁である。

だから、孔子顔回から仁になる方法を問われて、「克己復礼」と教えたわけである。

 

性善説性悪説

これは性善説性悪説か。

「人間の本性は天徳であり仁であり、身の欲を去って礼に復ればそのまま仁となる」と考えるなら性善説である。

「人間の身には欲がある。克己復礼の努力がなければどうしようもないのが人間だ」と考えるなら性悪説である。

 

ひとつのたとえ話

孔子の教えは、それを受け取る人の見方によって性善説にも性悪説にもなる。

どちらが本当であるか、色々複雑に考えてみたところで混乱する。

私は、この問題を植物で例えてみて、「性善説のほうが良いな」と思ったことがある。

 

種の本性はどこにある

植物の種がある。この種は、地に植えることで発芽し、生育・発展していく力を備えており、これが種の本性である。

数千年前、数万年前の種でも、適切な環境に置けば発芽するという。これは、そうなるべき本性を備えているからである。

 

もちろん、数千年も数万年も、発芽せずに種のままでいたことも事実である。

本性があるからといって、必ずしもなるべきようになるとは限らない。

本性を現わさないまま死んでしまう種もあるだろう。

過酷な場所に落ちてしまったら、種は死んでしまう。発芽し発達すべき本性が、環境によって死んでしまう。

 

性善説性悪説

「植物の種には発芽し発展する力がある。これが本性である。日光を当て、水や肥料をやって正しく育てれば、大いに発達する」

これは性善説である。

 

これを性悪説で考えるとどうか。

「植物の種は発芽し発展する力が乏しい。これが本性である。だから日光を当て、水や肥料をやって正しく育てなければ発達しない」

となる。

 

善なる本性は確かにある

しかし、この例えで考えると性善説が正しいように思える。

死んだ種にも、本性が備わっていたことは間違いないからだ。

正しく導けば本性を発揮して発達したに違いない。善なる本性があったのである。

 

※その後、貝原益軒先生の著書に同様の例えを見つけた。こちらの方が分かりやすいのでぜひご覧ください。

shu-koushi.hatenadiary.com

 

孔子性善説

孔子ご自身はどうであったろう。

性善説性悪説といった小さな考え方はしなかったであろう。

しかし、強いて言えば孔子性善説であったろう。

克己復礼の章句をみても、私はそう思う。

 

顔淵篇の章句で、孔子はこう仰る。

己に克って礼に復るを仁と為す。一日己に克って礼に復る。天下仁に帰す。

己に克って礼に復れば、そのまま仁である。

一日克己復礼。一日でも己に克って礼に復るならば、それは仁に違いない。

すると、天下の人々が皆その人の仁徳に帰服するようになる。

 

天下は仁に帰着する

ただ、私なりに考えてみて、

「克己復礼で仁となる、その仁に天下が帰服する

という解釈も確かにそうであると思うけれども、

「克己復礼で誰でも仁になる。学問で誰でも仁になれる。皆が学問道徳を修めるならば、天下は仁に帰着する

と考えたい。

 

仁者の徳に人々が帰服する。それも確かにそうだが、そこから更に、

「人ならば誰しも持って生まれたところの本性に、克己復礼で帰着する。再び帰る。身の欲に振り回され、本性は曇り、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、定まらずに紆余曲折したけれども、克己復礼で再び本性に帰着する」

というところまで考えたい。

 

もっとも、これは私の勝手な自説・新説ではなく、仁者の徳に天下が帰服するならば、その後に必ず天下仁に帰着するのが道理である。

そこまで考えたい、そこまで考えると孔子の教えは性善説とわかるのである。

 

ひとたび克己復礼すれば

まず、一日克己復礼。これを「一日でも克己復礼すれば」ではなく、「ある日、克己復礼すれば」とみたい。

「一日」は「一旦」とみても良い。一旦、ある朝、ひとたび、そちらのほうが分かりやすいように思う。

 

里仁篇には、こんな言葉もある。

朝に道を聞けば夕に死すとも可なり。

これは有名な言葉である。解釈は色々だが、

「ある朝、大道を聞くことが出来たならば、その日の夕方に死んでも良い」

「ある朝、天下に道ありと聞くことができたならば、その日の夕方に死んでも良い」

などと解する。どちらも、

・一旦道を聞けば夕に死すとも可なり

・一日道を聞けば夕に死すとも可なり

で通じるわけである。

 

これと同じで、「一日己に克って礼に復る」の一日を「朝」「一旦」と解するならば、「ある朝(ひとたび)己に克って礼に復る」となる。


人は誰でも、克己復礼で仁になる。ある朝(ひとたび)克己復礼すれば、それはもう仁である。その仁徳に天下が帰服する。

仁に天下が帰服するとどうなるか。先王有至徳要道以順天下、である。仁者の徳を以て、天下挙って順となる。道に順と逆とあり、順は仁であり逆は不仁である。天下が順になる、これは天下が仁に帰着するのである。

 

天下は仁に帰着する。ここが極めて重い、ここが感動的である。

これによって、人間だれしも本性は仁であり、天の徳を持っていると分かる。

正しい学問、心掛けによって道を悟って克己復礼、それでたちまち仁となる。誰でもそれができる、その本性がある。誰でも克己復礼で仁になれる。

仁者の徳に天下帰服し、この至徳要道以って天下を順にすれば、天下の人々が挙って礼に復る。これで、天下は仁に帰着する。

 

人間ならば誰でも、仁という善なる本性を持っている。克己復礼でそこへ帰する。

この章句をこのように読めば、孔子は明らかに、三字経でいうところの「人の初めは性本と善」であったといえる。

あえて説を立てるなら性善説であった。

 

孔子の言葉に痺れませう

克己復礼為仁。一日克己復礼。天下帰仁焉。

 

これを読めば、「孔子の教えで天下を救える」と確信する。

痺れるような言葉だ。

私も孔子と同じように考えたいので、性善説に賛成である。

しかし性善説とか性悪説とか、そんなことはあまり重要と思わない。

孔子の言葉に感動したら、私にはそんなものどうでもよくなった。

 

ナントカ説にこだわるより、孔子の言葉に痺れましょう。

感動しながら学びたい。孔門の先輩方はそうであったろうと思います。

下学して上達す

論語を読む際に気を付けたいのは、孔子がどんなときに仰ったものであるか、あるいは教える相手が誰であるかなど、色々な要素で教え方が変わることである。

結局は同じことを教えていても、弟子の性格や学問の程度によって教え方が異なり、矛盾していると思われるものもある。

 

一方で、距離的にかなり遠いと思える、互いに全く無関係に思える教えもある。

これはこれで疑問になる。

孔子の道は一以て貫く、ならばこの開きはどう解するべきか、という疑問が起こってくる。

 

今回は、そのことについてお話しします。

 

 

弟子の戸惑い

教えに矛盾が起きることについて、弟子もしばしば戸惑っている。

先進篇から例を挙げてみる。これは有名な話である。

 

子路孔子に問うた。

「先生から教えを受けましたら、それをすぐにそのまま実行してよいでしょうか」

孔子答えて曰く、

「それはいけない。お前には親も兄もある。父兄が存命のうちは、父兄に伺いをたてずに実行してはならない」

 

別の時、冉有が同じことを問うた。

すると孔子は、

「すぐに行ってよい」

とお答えになった。

 

子路冉有で真逆であるから、これを公西華こうせいかが不思議に思った。

「先生は子路どのが質問した時には『父兄が存命の内はだめだ』と仰いましたが、冉有どのが同じことを質問すると『すぐに行え』と仰いました。本当はどちらが良いのか、私は戸惑っています。どうかお教えください」

孔子はこうお答えになった。

「学問して、中庸に近づかなければならない。性格が弱い者は中に至らず、強い者は中を行き過ぎる。同じように教えることはできないのだ。

冉有は控えめだから、すぐに行うように教えた。子路は行き過ぎる性格だから、控えめにするように教えたのだ」

 

このような例はいくらもある。

この章句は、一つの章句で「子路にはこう」「冉有にはこう」「なぜ違うか」がセットになっているから混乱することはない。

しかし、別々の章句で教えが異なることも多い。

例えば、

・己に如かざる者を友とする無かれ(自分より劣るものを友とするな)

・汎く衆を愛して仁を親しむ(多くの人を受け入れ、仁者と親しめ)

などがそうである。

実際、子夏は前者を重んじ、子張は後者を重んじたように、直弟子の間でさえ「君子はこうすべき」で考え方が割れていた。

 

子夏は「己に如かざる者を友とする無かれ」の教えだけを聞いて、それを奉じたのかもしれない。

子張は「汎く衆を愛して仁を親しむ」と聞いて、生涯の方針としたのかもしれない。

 

幸い、私たちには論語という本があり、孔子の教えを色々に学べる。

矛盾に見える部分で混乱することもあるが、孔子の道は「一を以て貫く」であるから、よく分かれば矛盾でなくなる。

そういう学問をしたい。

 

質問への回答

次に、大きな隔たりがあるように思われるものについて。

以下の質問をいただいた。

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  1. 「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」の章句の全文の解釈
  2. 「我を知る者は其れ天か」の章句の全文の解釈
  3. 内容に開きがある中で、一以て貫くところ

の流れでお答えします。

 

未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん

まず先進篇、該当箇所の全文は以下の通りである。

季路きろ鬼神きしんつかふるを問ふ。子曰く、未だ人に事ふることあたはず。いづくんぞく鬼に事へん。曰く、敢へて死を問ふ。曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。

 

鬼神を、日本では「おにがみ」という。

ある歌に「心猛くも鬼神おにがみならず 人と生まれて情けはあれど」とある。

心はいたって勇猛だが、鬼神ではない。人であるから、情もある。

鬼神は、いわば荒神あらがみのイメージであり、至って荒々しいイメージだ。

 

儒学でいう鬼神はこれと違う。

天を神といい、人を鬼という。鬼という場合、亡くなった人を指す。

つまり鬼神とは、天の神様や祖先の霊のことである。

 

季路は子路子路が鬼神に事える道を尋ねた。

「天の神々や祖霊をまつるにはどうすればよいでしょうか」

孔子答えて曰く、

「お前は、人に事える道がまだ十分ではない。どうして鬼(亡くなった人の霊)に事えることができようか」

 

生きている人に事える場合、事える相手は目に見えるし、物も言う。

礼を尽くす対象も明らかである。しかしお前にはまだその礼が十分でない。

鬼神を祀るには、何といっても真心からの礼を尽くすことが重要だ。

生きている人に礼を以て事える道ができていないのに、どうして亡くなった祖霊(鬼)に十分な礼を尽くしてお祀りできようか。できるはずはない。

 

子路の方でも、「鬼神に事える」という大きな道ではなく、もう少し現実的なことに目を向けた。

「ならば、死に事えるにはどうすればよいでしょうか」

原文は単に「死を問ふ」だが、これは「死に事ふるを問ふ」である。一連の文章の中で、同じこと(ここでは「事える」)を繰り返さずに話を進める。古文の論法である。

したがって、漠然と「死とはどんなものでしょうか」と聞いたのではない。

「能く死に事ふるを問ふ」たのである。

 

「どのように死ねば道に適うでしょうか」

すると孔子は仰る。

「まだお前は、生に事えることをさえ不十分ではないか。それでは死に事えることもわかるまい」

 

生に事える、しっかり学問し、天より与えられた徳を悟り、為すべきことを為して生きていく。

それが分からないうちから、理想の死に方など考えるものではないし、考えても分かることではない。

それよりも、目の前の切実なことを学びなさい。そうすれば死に事える道もおのずとわかってくる。

 

我を知る者は其れ天か

次に憲問篇。先進篇の章句に比べて、こちらは随分難しい。

特に質問者のいう「我を知る者は其れ天か」、ここに至るまでの流れが中々容易でない。

こちらは特に丁寧にみていく。該当箇所の全文は以下の通り。

子曰く、我を知ること莫きかな。子貢曰く、何為なんすれぞ其れ子を知ること莫からんや。子曰く、天を怨みず、人をとがめず。下学かがくして上達じょうたつす。我を知る者は其れ天か。

 

質問には「我々を知る者は其れ天か」とあるが、原文では「我」である。

ここは、「大道を奉じる我ら一門を知る者は其れ天か」ではなく、あくまでも孔子ご自身、お一人のことであるから「我」である。そうでなければ、この章句は理解不能となる。

単なる打ち間違いとは思うが、単なる打ち間違い・読み間違いが記憶に定着することがある。私自身、しばしば経験があるのでお気を付けください。

 

根本先生は、これを哀公あいこう十四年春、孔子御年71歳の言葉と解する。

左伝に「十有四年、春、西に狩してりんを獲たり」とある。

叔孫氏の御者が獣を獲た。それは「麟」であった。麒麟きりんである。

麒麟を傷つけたり、死んだ麒麟を見たりすることは不吉とされる。そこで叔孫氏は、博学な孔子に獲物を見せた。

このとき、孔子は大変深くお嘆きになった。

 

麒麟は伝説上の動物であり、泰平の世にのみ現れるという。つまり瑞獣ずいじゅうである。

麒麟が出てくるのは瑞兆ずいちょうであり、本来めでたいことである。

泰平で、道のある世に出てきたならば、瑞兆として尊ばれたであろう。

しかし当時は乱世である。無道な世の中、出るべきでないときに出たばかりに、尊ばれることもなく、却って殺されてまった。

 

一生涯に渡り、苦労を重ね、道を説いてきた。しかし世の中は乱れる一方である。

いつしか70を超えて余命いくばくもない。そんなとき、泰平の象徴である麒麟まで殺されてしまった。

 

往々にして、吉兆には人々の希望が、凶兆には人々の恐れや不安が込められる。

麒麟は吉兆であり希望である。

孔子の教えも、この道を以て乱世を救い得るという希望に満ちている。孔子ご自身が、最も強く希望を抱いていたはずだ。

しかし麒麟は殺され、希望は無残に破られた。

孔子は、この麒麟と、ご自身の歩んだ道を重ね合わせたであろう。

だから深く嘆いた。

 

この章句には、このような背景がある。

 

以下、本文の解釈。

子曰く、我を知ること莫きかな。

 

孔子が仰った。

「私を知る者は今の世にはいないであろうな」

仁義の道を説き、乱世を救おうと志して努めてきた。

しかし麒麟も死んでしまった。泰平への望みは絶たれてしまった。

私の志や説いてきた道、それは私そのものである。それが破られた今、天下に私を知る者はいない。

嘆いてこのように仰った。

 

子貢曰く、何為れぞ其れ子を知ること莫からんや。

 

それを聞いて、子貢が慰めた。

「そんなことはありますまい。先生のお名前は天下に知られております」

先生ご自身が用いられず、世の中が乱れているのは確かですが、ご心配には及びません。

先生の道は正しいのですから、必ず先生を知る者が大勢出てきます。

 

流石に子貢は達見である。その後、孔子(の道)を知る者、奉じるものが徐々に増え、漢のころには国教となり、その後も受け継がれ、現代の我々も孔子を知っている。

 

子曰く、天を怨みず、人を尤めず。下学して上達す。

 

孔子は仰った。

「しかし、たとえ私を知る者がいないからといって、天を怨んだり、人を咎めたりすることはない。低い所から学び、一生かけて磨き、天理に達したからである。

 

下学して上達す、これが重い。私は、これがこの章句の眼目と思っている。

 

天地人を三才という。人は天と地の間に生まれる。

王という字は、上の一が天、下の一が地、真ん中の一が人。三才を貫き束ねる、聖徳ある天子を「王」という。

だから天子は天地を祀り、人を治め、天下を保つことができる。

 

人として天地間に生まれる。

地は低く、天は高い。

地に足を付けて、低い所から学び続け、徐々に高くなった。五十にして天命を知った。

これは徳命であり、天から命じられた道徳を悉く悟ったのである。道徳とは、平たく言えば正しい生き方・在り方である。それを悉く知り、それ以降、ご自身が為すべきことを為そうと、一層に勉められた。

 

やがてその学問道徳が天に達するほどになった。天道天理に達した。

天のことも人のことも十分に知ったからには、どうして天を怨んだり、人を咎めたりすることがあろうか。

私を知る者、用いる者がなくとも、遺憾に思うことはない。

 

我を知る者は其れ天か。

 

「私を知っているのは、天だけだよ」

天道天理に達した、天の徳と一体になった。我は天を知っている、天も我を知っている。

人は知らずとも、天だけは私のことを知っている。

何の不足があろう。それだけで十分である。天を怨むことも、人を咎めることもない。

 

孔子が「我を知る者は其れ天か」と仰った裏には、これだけのことがある。

 

再び質問へ

以上を踏まえて、再び質問に返る。

 

質問者は、

「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」

「我を知る者は其れ天か」

の内容に開きを感じるという。

これらの言葉は、全く異なる場合に発せられたものであるから、開きを感じるのが普通の感覚であろうと思う。

 

しかし、孔子の教えは一以て貫く。異なるように見えても、根本には一貫不惑の教えがある。

 

孔子子路に仰った「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」、これを「下学に勉めよ」の意味で解すると、ふたつが綺麗につながる。

 

生を知らねば、死を知ることもできるはずがない。

天地間に生まれた人として、一心に下学せよ。

徐々に高くなり、やがて上達すれば天理を知る。我々が日々目指す中庸の徳も天の理であり徳である。

得たところの中庸の徳そのままの心、中なる心、それを忠という。一以て貫くところの忠恕の道である。

下学して上達すれば、苦難に満ちた人生であっても、天を怨まず人を尤めず。天が我を知っている。どのような死に方をしても遺憾に思うところはない。

 

下学して上達し、能く生に事える道を知った。

するとどうだ、能く死に事える道もおのずとわかるではないか。

 

孔子子路に教えたのは、おそらくこのような意味であったと私は思う。

もちろん、ふたつの言葉は別々の時期のものであったろう。子路に教えた時の孔子は、「我を知る者は其れ天か」の心境になかったかもしれない。

しかし、孔子の道は一を以て貫く。状況や心境が異なったとしても、根底にあるものは同じであったのだから、それぞれの言葉を忠なり仁なり、つまり天徳を軸に解することは、別段無理のない解釈であろうと思う。

 

私は、この質問のふたつの章句を合わせて考えたことがなかった。

今回、質問を受けて初めて考えた。

自分なりに、これとこれはこう読むべきだろう、と結論を得ることができた。

この質問は、これまでで一番勉強になり、ありがたいことでした。

 

易のことは別の機会に

最後に、論語易経の関係に関して具体例を、とのことですが、これはやめておきましょう。

 

具体的に(易のどの部分を読んで、どのように解釈して、論語ではどの章句をどのように解釈して、どのように紐づけて…)と言ったことになると、説明が難しい。

説明できないわけではないが、どこからどのように説明すればよいかわからない。

質問者が易をどのくらい知っているか分からないからである。

全く知らない、あまり知らないという場合、おそらく大変な説明になる。

 

例えばAという卦がある。これは八卦のどれとどれを組み合わせたものである。

上下それぞれの卦にはこれこれの意味がある。それは易ではこの場合にこのように考えるからである。

ちなみに易ではこの爻とこの爻の関係がこれこれで、このように解する。

したがって、A卦の〇爻目は、全体の象からみてもこんな意味と思われる。

そこで本文を見るとこうある。これはこのようにも、あるいはこのようにも解釈できる。

そこで論語のここを見てみるとこう書いてある。ここで孔子はこれだけのことしか仰っていないが、A卦にはこうあるから、おそらくこのようにお考えであったろう・・・

 

と、このようなことをお話しすることになる。

少なくとも、この記事の中でお話しすべき内容ではなくなる。

 

ひとまず、このブログが具体例と考えてください。

今回、易をやったから書けたことも多いですから、「易を知れば論語をより理解できる」ことの一例になると思います。

 

 

仁と礼楽

仁と礼の関係について質問を受けた。

今回は、八佾はちいつ篇の章句を取り上げる。

 

八佾第三より

今回取り上げるのは、八佾篇の以下の章句である。

子曰く、人にして不仁ならば礼を如何いかんせん。人にして不仁ならば楽を如何せん。

 

論語の読み方

論語を読む場合、孔子がどのような場面で教えを垂れているかを考えることが大切と思う。

ある章句を考えるとき、それを単体で考えるだけではごく表面的な見方しかできない。曲解に陥る危険もあるだろう。

論語の一部分だけを摘まんだ要約本がまずいのはそのためである。

この章句の仁・礼・楽を考える際にも、少なくとも八佾篇全体、延いては論語全体、可能であれば他の経書とも絡めて考えるべきと思う。

八佾篇は礼楽に関する教えを中心に作られている。

八佾篇の他の章句と絡めるだけでも、この章句の見え方が変わってくる。

 

一般的な解釈

一般的に、この章句は以下のように解する。

仁の心がなければ、形式的な礼楽があっても無意味である。

なぜ仁がなければ礼楽が無意味になるのか。

 

礼というと、礼儀作法のような形式ばかりをイメージしがちだが、本来この形式は仁が外部に現れたものである。

礼記にはこうある。

礼節は仁のぼうなり、歌楽は仁の和なり。

(礼節は仁の美徳を身体で表現するものであり、歌楽は仁によって物事が調和することを音で表現するものである)

礼も楽も仁から生まれるものなのだ。

仁がなければ礼楽は生まれない。目の前で繰り広げられるのは“礼楽らしきもの”に過ぎず、ごまかしである。

 

仁と礼楽の関係

しかし、この解釈では物足りない。

八佾篇の他の章句はもちろん、論語全体、他の経書などを併せて考えると、仁と礼楽の関係が一層よくわかる。

「人にして不仁ならば礼楽を如何せん」と仰った孔子の心が少しわかる気もする。

そのように解したい。

 

季孫と八佾の舞

当時の魯国を考えてみよう。

当時の魯国は、三桓氏、とりわけ季孫きそん氏が権力を握っており、魯公は有名無実であった。

季孫は、臣であり下である立場を以て、君であり上である魯公を侵していた。

礼楽においてもそうで、季孫家の廟では八佾はちいつの舞をやった。

八佾の舞は天子の舞楽である。季孫は魯国の臣であり、天子からみて陪臣ばいしんの立場にある。陪臣とは家臣の家臣。季孫は、天子の家臣である魯公の家臣であるから陪臣である。

陪臣が天子の楽を用いるなど、下が上を侵すこと甚だしい。

八佾篇の冒頭で、孔子もひどく怒っている。

 

下にして上を侵すは不仁

学而篇で、有子ゆうしが「孝弟なるものは其れ仁の本たるか」と言っている。

親に事えることや年長者に事えることを仁の本とする。孝がなければ仁もない、不孝即不仁である。

孝経を読むとよくわかるが、忠と孝には同じ重さがあり、「親への孝をそのまま君への忠にすべし」と教える。忠と孝は通じる。したがって不孝が不仁ならば不忠も不仁である。

また、孔子は「吾道は忠恕のみ」と喝破したくらいである。忠と仁は等しい。不忠は不仁である。

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季孫氏は陪臣の立場で天子の舞を用いた。これは、下が上を侵すことであり、不忠であり、不仁である。

 

「如何せん」

子孫が先祖を祭るのも仁である。祭事には礼楽が欠かせない。これも仁が本となるのだから、子孫が先祖を祭るに不仁であってはならない。

不仁では祭礼は成り立たない。不仁であれば礼楽を如何せん、ということになる。

 

季孫は、自分の先祖を盛大に祭ろうと思って八佾の舞をやったわけだ。

しかし、不忠不仁なのだから、季孫の祭礼は全く「如何せん」、無意味である。むしろ盛大であればあるほど不仁の程度は大きくなり、礼から遠ざかる。

 

この言葉は、一国を牛耳っている者がこの体たらくではどうもならんと、孔子が季孫を憎んだ言葉であると私は思う。

「仁がなくて形式だけなら無意味だ」と解するだけでは味がない。

 

私の解釈

八佾篇のこの章句を、私は以下のように解する。

子曰く、人にして不仁ならば礼を如何せん。人にして不仁ならば楽を如何せん。

 

先生が仰った。

礼楽は仁から生まれてくるものだ。仁の表現であり、仁を飾るものである。

不仁であれば、本当の礼楽が生まれることもない。目の前に礼楽らしきものがあったとしても、それは形式だけでごまかしものである。

 

季孫の祭りを見てみよ。

陪臣の立場でありながら、天子の礼楽を用いている。

八佾の舞は最も盛大で立派なものだ。

しかし季孫のごとく、人にして不仁ならば礼楽を如何せん、どれほど立派な礼楽も無用である。

 

質問への回答

この章句に関して、以下の質問を受けた。

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論語古義はまだ読んでいない。

仁斎先生の「人として不仁であるのは、徳の根本がないから」という言葉についても、その周辺の思想が分からないので何とも言えない。

この言葉だけをみると、「徳の根本(仁)がない=不仁」ということになり、仰る意図がよくわからない。

ここはよく分からないのでそのままにしておく。

 

質問は、「仁から義、礼、智への広がり方が分からない」というものである。

義から礼、礼から智の広がりが分からないというが、この質問から考えるに、質問者は「仁⇒義⇒礼⇒智」の流れを考えている。

しかしこれが誤りで、正しくは「仁⇒礼⇒義⇒智」である。

 

まず、仁から礼である。仁から礼への広がりは、ここまで解説した通りである。仁の発露として礼がある。

そして礼から義、義から智が正しい流れである。

 

これは、易を読むとよくわかる。

易経に、「乾、元亨利貞げんこうりてい」という言葉がある。

元亨利貞とは変化のサイクルである。

 

元で物事が始まり、

亨で始まった物事が伸びて往き、

利で伸びたところを引き締め、

貞で引き締めたところを固く守る。

 

四時に充てると、元が春、亨が夏、利が秋、貞が冬、春夏秋冬に当てはめることができる。

春、雪の下から草花が顔を出し、芽吹き、地上に生気が満ちて往く。始まりであり元である。

夏、気温が高くなり、春に始まった生命が躍動を見せ、盛んに伸びて往く。亨。

秋、盛んに伸びてきた生命が成熟段階に入り、実りを迎える。伸び放題に伸び続けるのではなくよろしきところで結実する。

冬、成熟した実が枯れ、地上に落ち、固い種が残る。貞。

 

これを道徳にも当てはめることができる。元が仁、亨が礼、利が義、貞が智である。

仁は徳の根本だ。聖王は仁の徳を以て民を養い育てる。そこに文化なども芽吹いてくる。春であり元にあたる。

礼は、礼義三百威儀三千などと言われる通り、仁から生まれて様々に広がり、仁を装飾する。夏であり亨。

しかし、礼が過度になると却って礼を失う。必要以上の礼は避けねばならない。適度、適切に、よろしきように整える。これが義。義とは「よろしきなり」。利も「よろし」である。

最後に智で仕上げる。智は是非善悪を正しく判断する徳である。仁で始まり、礼で発展し、義で整えたものを、智によってより正しく導き、堅固に守ってゆく。これが貞である。

 

一般に、この四徳は「仁義礼智」と覚えるが、流れは「仁礼義智」である。

四徳のつながり、流れは元亨利貞に基づくもので、明快だ。このように考えると、こじつけと感じることもないと思う。

知らざるを知らずと為せ

論語には、一般にもよく知られる言葉が少なくない。

以下の為政篇の章句もその一つである。

 

子曰く、ゆうなんぢに之を知るをおしへんか。之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり。

 

この章句について質問も受けたので、今回はこれを取り上げる。

 

 

子路の性格

この章句を理解する前提として、子路しろという人がどのような性格の人であったかを知っておく必要がある。

子路といえば、孔門三千人の弟子の中で、最も忠勇に優れた人であった。

孔子家語』の七十二弟子解には、こう書かれている。

仲由ちゅうゆうべん人、あざな子路。一の字は季路きろ孔子よりわかきこと九歳。勇力才芸有り。政事を以て名を著す。人と為り果烈にして剛直。性、にして変通へんつうに達せず。

(仲由は魯の弁の人、字は子路といった。また季路という字もあった。勇気があって力に優れ、才能もあって武芸に長けた。政事で名を成した。人と為りは果敢・猛烈、真っ正直であった。しかし剛に過ぎて洗練されておらず、物事の裏と表の変化に疎かった。)

 

孔子の誨え

為政篇の章句は、そんな子路孔子が戒めた言葉である。

子曰く、由、女に之を知るを誨へんか。之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり。

 

「誨える」とは

孔子子路に親しく「由よ」と語りかける。

「由よ、お前にひとつ『知る』ということを誨えてやろう」

ここは「教える」ではなく「誨える」である。

教誨きょうかい」といえば「教えさとす」の意味である。同じ「おしえる」でも、「誨」は「さとす」の意味が強い。

「ああせよ」「こうせよ」「それはこうである」という直接的な指導ではなく、相手が悟るように引き立てるのが「誨」である。

 

孔子は超一流の教育者であった。弟子の性格、長所と短所、学問の程度などに応じて色々に教えるのが上手であった。

子路に教えるときにも、子路の性格に沿って教えている。子路は武芸を好んだから、武芸に例えた教えもある。

 

知っていることは知っている

孔子はまず仰る。

「之を知るを之を知ると為せ」

お前が知っていることは、知っているとするがよい。

子路は性格の強い人だから、自分の知っていることであれば強く主張したことだろう。

それはよい、知っていることなのだから知っているとして良い。

 

知ったかぶりを叱られる

しかし、子路は早合点することも多かった。

また、負けん気が強い人であったから、本当に知らないことまで知っているとして人に押し付けることもあっただろう。

子路篇でも、子路孔子にひどく叱られている。

子路孔子に尋ねた。

「もし衛の君が先生に国政を任せたら、まず何からなさいますか」

「第一に名を正そう」

詳細は別の機会に書くとして、子路にはこれが迂遠うえんに思われた。

「先生は迂遠です。今日、もっと優先すべきことがあるでしょう。名を正す必要がありますか」

子路の意見は、「名分」というものがいかに重要であるか、なぜそれを第一に正すべきかを知らないための言である。

子路は、それよりもすぐにやるべきことがあると思っていた。先生はそれをご存じない、迂遠でござる。

孔子は厳しく叱った。

なるかな由や。君子は其の知らざる所に於いて蓋闕如かつけつじょたり。

野は田舎者、転じて道理が分からない、道に達しない者のこと。

由よ、お前はなんと野卑なのだ。そんなことでは、名分を正す重要性など到底分かるまいな。

君子たる者は、自分の知らないことは口にしないものだ。いい加減なことは言わぬものだ。

 

ここを朱子は「けだし闕如す」というが、根本先生は「蓋闕如」と解する。私も「蓋闕如」の方がよいと思う。

かつはふた、闕如けつじょはわからないことそのままにしておくこと、言わないで慎んでおくこと。

蓋闕如で「分からないことにはフタをしたように、強くとどめておくこと」となる。

 

孔子子路を、「いい加減なことを言うな。知らないことは蓋闕如で通せ」と戒めた。

特に、このやり取りは衛の継承問題に関することであった。ひとつ間違えば命を落とす問題である。

そこで知ったかぶりをするなど、軽率この上ない。蓋闕如でなければ危ない。

実際、子路はこの政争に巻き込まれて命を落とすことになる。

 

通常、「知らざるを知らずと為せ」の章句は「知ったかぶりをするな」といった程度のものだが、子路の死を合わせて考えると、「お前はその知ったかぶりで死ぬかもしれぬ」という、非常に重い戒めであったのかもしれない。

 

知らざるを知らずと為せ

知らないこと、分らないことについていい加減なことを言う。これは、「知らざるを知ると為す」ということである。子路にはこの弊があった。

そこで、「知らざるを知らずと為せ」

ここがこの章句の眼目である。

 

子路は剛に過ぎ、負けず嫌いで、せっかちなところがあった。

早合点して決めつけ、押し付け、よく知らないことでも堂々と主張することがあったのだろうと思う。

負けず嫌いは結構だが、過ぎれば短所となる。

子路の場合、それで命を落としかねない危うさがあった。

 

何事でも、負けまいとしすぎるのはいけない。負けるべき場合には、さっさと負けてしまうことだ。

知らないことを知っているとして力押しにする、そんな負けを知らない態度では甚だ良くない。そこは素直に「知らない」として教えを乞うのが正しい。

子路にはそういうバランスが欠けていたから、孔子は誨えたのだと思う。

 

 

 

仲尼閑居して子路侍せり

蓋闕如の教えは深刻だが、「知らざるを知らずと為せ」については、なにかのんびりしている時にでも語ったように思われる。

孝経の冒頭、「仲尼ちゅうじ閑居かんきょして曾子せり」と同じ光景が浮かぶ。

孔子が自宅で特に用事もなくのんびりしておられた。曾子がそばにいた。

曾子は孝行の人であり、孔子も高く評価された。そんな曾子の人柄を見込んで、この弟子こそ孝の真髄を伝えるべきと思い、孝について語られた。

 

孔子と弟子のやり取りは、このような形で行われることも多かったのではないか。

仲尼閑居して子路侍せり。子曰く、由、女に之を知るを誨へんか。之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり。

孔子がゆっくりしておられた。子路がそばにいた。孔子は良い機会だと思い、子路に「知る」ということについて誨えた。

 

これは私の勝手な妄想で、関係のないことだが、ついでに申しておく。

 

健全な学問のために

知らないことを知っているとする、いわゆる「知ったかぶり」をすることの弊害は何か。それは、健全な学問ができなくなることだ。

知らないことを認めない。これは反省がないということだ。反省がなければ学問は進まない。

 

ほとんどの人は、子路ほど性格の剛くない。今の時代、知ったかぶりで命を落とすこともない。

しかし、知っていることは知っている、知らないことは知らない、そう振舞うことが大切である。

 

知らないことは、なんとなく恥ずかしく思われる。

だから、知らないことも知っているように振舞う。

知らないことは知らないという。これは単純なことに思えて、徹底するのはなかなか難しいことと思う。

 

蓋闕如、これはもっと難しい。

知らないことを知らないとせず、知った気になると安易な発言が多くなる。蓋闕如でいられない。

知らざるを知らずと為さず、日常的に知ったかぶりをしていると、やがて知っていることと知らないことの境界が分からなくなる。

そういう錯乱状態に陥る恐れがあるのだから、知らざるを知らずと為すは大変重要なことである。

 

質問への回答

さて、この章句について以下の質問をいただいた。

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論語古義は読んでいないので、仁斎先生の言葉の全体が分からない。どんな文脈で仰ったのかも知らない。

「知らざるを知らずと為せ」の章句とのつながりも、いまひとつわからない。

 

回答後、該当箇所の解説を見せていただいたところ、仁斎先生の仰っているのは、

・「知る」とは必要なものを「知る」ことである

・世の中のことを知り尽くすことはできないのに、必要のないことまで知ろうとするのは「物好き」「度外れ」である

との意味であった。

 

質問者は、四書五経を知ろうとする自分を「物好き」「度外れ」としているが、この認識がそもそも間違いと思う。

四書五経を知ることは、知り尽くせないことを知ろうとすることではなく、必要なことを知ろうとするのである。したがって「物好き」「度外れ」の類ではない。

もし、四書五経を知る自分を「物好き」「度外れ」と思うならば、それは「四書五経は知りつくせないもの」「それを知ろうとするのは必要以上の知的欲求であり、物好き・度外れ」ということになりってしまう。

「物好き」「度外れ」では、儒学が趣味的学問に堕する。趣味的学問が自分を磨く役に立つか、甚だ疑問である。むしろ非常にまずい考え方ではないかと思う。

四書五経を知ることは「物好き」「度外れ」ではなく、「物好き」「度外れ」では四書五経を知ることは不可能と思う。

 

質問者は、儒学を良き教えであると思い、それを知ることを好んでいるに違いない。

しかし同時に、現代を生きていくうえでの重要性を掴みかねており、多かれ少なかれ「現代にミスマッチなもの」といった感じを抱いているのではないか。

一冊ずつ時間をかけて、着実に取り組むのが良いと思います。

論語と孟子の関係について

ツイッター論語に関する質問を募集したところ、さっそく以下の質問が寄せられた。

 

伊藤仁斎先生の論語古義では、

孟子七篇の書物は論語の註釈である。だから孟子の意味が分かって初めて論語の意義を明らかに出来る。」

とあります。

この仁斎先生の意見に対してのお考えをお聞かせください。

論語古義は未読であるので、この部分(訳)だけを読んで思うところを率直に述べてみる。

 

仁斎先生の意見はその通りと思う。

しかし、考え方の向きによって、解釈を大きく誤りそうな感じもする。

訳が不親切ではないかと思う。

 

孟子の意味が分かって初めて論語の意義を明らかに出来る」の解釈には、

  1. 孟子が分かれば論語も分かる
  2. 孟子さえ分からないようでは論語も分からない

の二通り考えられる。

1は誤り、2は正しい。仁斎先生は2の意味で仰ったものと思う。

この訳では、1にも捉えることができるから危ない、と感じる。

 

1は、どうかすると「孟子が分かれば、論語も(必然的に)分かる」という考え方にもなりそうだが、それは間違だ。

当然ながら、孟子を読んでいない人には孟子がわからない。

しかし孟子を読み、理解していることが論語理解の絶対条件であるとすれば、孔子のお弟子は誰一人論語の意義を知らなかったことになる。そんなおかしな話はない。

 

確かに、「孟子論語の註釈」といえる。

孟軻という偉い人が、混乱する世の中に合わせて論語の剛なる面に重きを置いて詳しく説いた。それが孟子である。

しかし、孟子の方が論語より大きいといえるのは文字数だけだ。実際には論語の方がずっと大きい。

 

易で言えば、太極が両儀(陰陽)に分かれ、次に四象、それから八卦、さらに六十四卦と分かれていくようなものだ。

何事においても、詳しく説くためには1を2、2を5、5を10で丁寧に、あれこれと例など挙げながら解説せざるを得ない。

太極から陰陽、陰が老子、陽が論語とすれば、孟子荀子四象八卦に位置するだろう。

論語は根本に近く、孟子は根本から遠い。孟子は義において論語よりずっと小さい。

 

分かりやすい違いを一つ挙げると、論語には革命を是とする言葉が皆無だが、孟子にはそれがある。

これは孔子孟子の極めて大きな違いである。論語だけではなく、他の書に出てくる言葉を見ても、孔子は革命を善しとするようなことは一度も仰っていない。

革命は権道であり、儒者の常道・理想から大きく外れる。

革命が必要なほど世の中が混乱していること、革命に伴いさらに多くの混乱が生まれること。

そんなものは理想ではない。そうならないように為政者に徳を求める。文王のような聖徳ある君を最上とする。

それができれば革命は起こり得ない。孔子は革命を是としない。

こんなところにも、論語が本、孟子が末の違いが明確に表れている。

 

 

論語孟子よりずっと大きいのだ。

だから、「2.孟子さえ分からないようでは論語も分からない」といえる。

孟子が註釈、論語が本文、註釈が分からねば本文も分からない、仁斎先生の例えは分かりやすい。

しかし、これは小さい方から見た見方である。考え方を逆にして、大きい方から見た方が分かりやすいと思う。

本文が分かれば註釈も分かる。論語が分かれば孟子も分かる。

もちろん、註釈によって本文がもっとよく分かる。孟子によって論語がもっとよくわかる。孟子さえ分からぬようでは論語が分かる道理がない。

 

論語天照大御神なら、孟子須佐之男命だ。論語から見て、孟子はしばしば剛に過ぎる。

それが孟子尊いところでもあるが、須佐之男命は剛に過ぎて高天原から追放された。剛に過ぎれば道を失う。


直接の師弟関係にあったとすれば、孔子はおそらく孟子を「お前は中庸を失っている」とたしなめることもあろう。

孟子を読んで、それだけで論語を理解したと思い込むと、却って孔子の教えから外れるのではないか。

 

仁斎先生の言葉は、考え方の向きで正しくもなるし誤りにもなるので、注意深く見るべきと思う。

筆写の方法を詳細に

ツイッターで交流のある数人の方が、筆写に取り組んでいるという。

筆写は私にとって唯一にして最高の方法なので、その方たちの取り組みも「大変良いこと」と思う。

以前、筆写について聞かれた際には、あまり詳しくお話ししなかった。

質問した人が筆写に取り組むことを想定していなかったからだ。

しかし、今やそうではない。

筆写に取り組むうえで大切なこと、特に健康面への配慮、そのための環境づくりや道具選びなどを詳しくお話ししようと思う。

 

 

なぜ筆写するか

私は、あまり読書をしない。

ここでいう読書とは、本を黙読や音読のみによって読むことである。

読書があまり得意ではない。

単に読むだけでは没入できず、理解もいまひとつで、内容もあまり覚えていない。

私にとって没入感があり、理解でき、記憶にも残る方法が筆写である。

 

ツイッターを始めて、筆写についてしばしば聞かれた。

何をどう写すか、継続するにコツはあるか。

聞かれたことを思う通りにお答えしてきた。

 

ごく最近まで、継続にコツなどないと思ってきた。

「ただやるだけ」とお答えしてきた。

写すことは誰でもできる。一字々々と写していけばいつか必ず終わる。

終わりが見えなければ継続は難しいが、終わりが見えるから継続もできる。

継続さえできれば、四書五経全部写すくらいは何でもない。

ただそれだけであると思ってきた。

 

筆写は体を悪くする

しかし、よくよく考えてみるとそれだけではない。

筆写は根気のいる方法である。

1000ページの本を全部写そうと思えば、読む時間、調べる時間、写す時間でおそらく1000時間はかかる。

これを1年でやろうと思えば、毎日3時間はやることになる。

そのうち書く作業は2時間くらいか。

実際には、2~3時間では進むのが遅く、もどかしいのでもっと書くことになる。

当然、体への負担は大きい。

 

腱鞘炎

考えなく、情熱だけで筆写に取り組むと、間違いなく腱鞘炎になる。

筆写を習慣化すると、筆写しない日があるのが嫌になるから、腱鞘炎でもやる。

その結果、腱鞘炎が慢性化する。

腱鞘炎で病院に行ったことはないから、治るかどうか知らない。

行ったところで、筆写を休め、止めよ、時間を減らせなどという話になるのは目に見えているから、行くだけ無駄だ。

厄介なのが、痛みが徐々に体の中心に向かってくることだ。

肘、肩とおかしくなり、腰や首もおかしくなってくる。

 

筆写が続かない理由

高校の頃から、本を筆写してきた。

もう15年以上、この方法を続けている。

利き腕はとっくの昔におかしくなっているが、私にはこれ以外方法がないから特に不満も抱かず続けてきた。

 

しかし、筆写以外に方法がある人ならどうか。

体が辛くなると、心も辛くなってくる。

集中力を欠いたり、筆写が嫌になったりする。

体を休めよう、筆写は中断して読書に切り替えよう、この流れになると筆写は続かない。

必ずしも筆写にこだわらない人であれば、おそらくそうなる。

 

ならば、体への負担を軽減することが筆写を続けるコツなのではないか、そんな風に思った。

快活に筆写することができれば、毎日でも、何年でも筆写は続けられる。

 

道具選びと環境づくりで筆写は続く

私も、体が悪くなるのに比例して、道具選びや環境づくりに取り組んできた。

筆写を始めた当初と現在では全く違う。

 

現在、毎日10時間くらいは筆写している。

腕や首など、色々不調を感じないわけではないが、やっていることの割には症状が軽いように思う。

 

些細な気づきも含め、私が普段やっていること思いつくだけ全てお話しする。

ひとつでも、ふたつでも、取り入れた分だけ筆写を継続しやすくなると思う。

 

道具篇

まず、道具である。

当然ながら、筆写には紙とペンが必要になる。

 

写す紙は何でもよいと思うかもしれないが、決してそうではない。

筆写するうえで最も重要なのは紙である。

私は、マルマンのジウリスを使っている。

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厚みがある

ジウリスは少々高いが、質が大変良い。

一枚手に取ってみると分かるが、しっかりと厚みがある。

ものを書く時、

 

ペン

下敷き

 

という形になっている。紙より下は固い。紙が薄いほどペン先に固さを受けやすく、手首への圧が鋭くなる。

紙が厚ければ、これがいくらか軽減される。

 

薄い紙を数枚束ねて書くのはどうか。

確かに負担の軽減にはなるが、書いた紙を裏返した時に表の文字(筆跡)が浮き出てしまう。それでは裏面が書きにくく、ストレスになる。

また、下敷きにした紙にも筆跡が残り、後々書く際にガタガタとやかましい。

万年筆で書く場合、インクのにじみや裏抜けの問題も起こる。

1枚でこの問題を解消するには、ジウリスのような厚みが必要だ。

 

引っかかりが少ない

ジウリスは万年筆用ルーズリーフである。

インクの乗りが良く、にじみや裏抜けがほとんどない。

これは、紙の繊維が密なのである。

万年筆でなくとも、引っかかりが少なく書き味がなめらかだ。

これが、疲労感・負担の軽減になる。

 

他とは違う実感

ジウリスをしばらく使った後のこと。

ジウリスを切らしてしまったのでネットで注文し、到着までの間のつなぎで安いルーズリーフを使ったことがある。

書き味の悪さに驚いた。そんなもので長時間書けば、当然疲労感も大きい。

筆写を続けるならば、紙の質にはこだわるべきである。

 

ただし、私は色々使ってジウリスにたどり着いたわけではない。

高かろう良かろう(といっても1枚10円程度)で選び、良かったので使い続けている。

ジウリス以外にも良いものがあるかもしれないが、私がおすすめできるのはジウリスだけである。

 

使い分け

なお、ジウリスには7㎜罫線タイプと5㎜方眼タイプがある。

どちらも使ったことがあるし、どちらでも良いと思う。

私が5㎜方眼タイプを使っているのは、書いた文字が整然と並んでいる必要があるからだ。

入手困難な本を写して一冊作ることも多い。その場合には読み返すことを前提としているため、整然としていなければならない。

また個人的には、このように丁寧に写した方が記憶に残りやすい気がしている。

 

ペン

ペンは、万年筆が良い。

万年筆は、他の筆記具に比べて軽い力で書けるため負担が少ない。

ただし、安物はインクフローが悪く、細字になるほどカリカリとした書き味になりやすい。なにかとストレスになる。

有名なブランドの、それなり(数万円)のものを選び、長く使い続けるのが良いと思う。

 

もっとも、私は現在ボールペンを使っている。

万年筆のほうが良いと思っているが、上記の通り5㎜マスに書いているから、万年筆では書きにくい。

特に、中国古典の筆写では「龜」のようなごちゃごちゃとした漢字もよく書く。

超極細の万年筆(プラチナの3776センチュリー)を使っても書きにくく、出来上がりが雑な雰囲気になったり、読み返すのに具合が悪かったり、色々困ったことになる。

 

これに対処するために、ボールペンに切り替えた。

現在使っているのは、三菱のSTYLE FIT。

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最も細いものは0.28㎜である。

インクのフローは良いが、これだけ細くなるとヌラヌラとした感触はなく、どうしてもカリカリとした書き味になる。

しかし、ヌラヌラとした感触はインクが多く出ているためであり、それでは細く書くこともできないから必要な負担である。この負担への対処法は後述する。

 

これを使えば、5㎜マスでも、細かい漢字でも自由自在である。

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ふりがな付きの「嬖人」でも、「蝤蠐」でも難なく書ける。

 

環境篇

道具は、紙にこだわり、それに合わせてペンにこだわるだけでも十分と思う。

もうひとつ重要なのが、筆写する環境である。

 

私が筆写する時、机はいつもこのようになっている。

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①重り

まず、紙を押さえる重りが必要である。

私は5kgの金棒を使っている。

ただし何キロ以上必要、というものではない。私の金棒も元は素振り用で、手元にあったから使っているだけだ。

紙が動かないだけの重さがあれば、文鎮でもなんでも良い。

 

重りを使わない場合、右利きであれば右手で書きつつ、左手で紙を押さえなければならない。

ここに問題がある。手汗である。

筆写は長時間取り組む。ジウリスの5㎜方眼紙は片面で約2000マス、全部埋めるには2時間ほどかかる。

たとえ寒い時期でも、手汗が少しずつ染みてくる。

もちろん、細かくびっしり書く場合には紙面に乗るインクの総量も多くなる。

手汗やらインクやら、時期によっては大気中の湿気やら、たくさんの水分を吸うわけだ。

 

ここで、ジウリスの質の良さが仇になる。

繊維質が密でしっかりした紙だからこそ、スカスカの紙に比べて水分を容れる余裕がない。

それがたわみになって表れる。紙が波打つのである。

ジウリスは厚みがあるから、たわみのクセも強く、非常に書きにくくなる。

そこで、左手で押さえずに書くために重りを乗せるのである。

 

②下敷き(小)

これも、書く手の汗が染み込むのを防ぐためである。

下敷きを小さく切ったものなど、プラスチック製なら何でもよい。

 

③定規(大)

①と②によって手汗の影響はなくなるが、それでもインクの水分がある。小さく波打ち、鬱陶しくたわむ。

そこで、現在書いている行のすぐ隣に定規を当て、たわみを押さえる。

定規そのものの重さで自然と押さえてくれるように、30㎝の定規が良い。

 

④定規(小)

これは、定規でも栞でも何でもよい。

ただし、私には必要でも、ほかの人には必要ないかもしれない。

 

私は、読んでいる箇所から数秒でも目を離すと、目線を戻した時にどこを読んでいたかわからなくなる。

だから読書が苦手なのだ。

筆写する際には、本を見て読み、紙を見て書き、また本を見て読み、紙を見て書き・・・を繰り返す。

1日10ページ写すとする。1行を写す間に、本と紙の間を少なくとも5回は行き来するだろう。

1ページ15行とすれば750往復。そのたびに続きの箇所を探す必要がある。

探すほうが大変で、煩わしく、筆写どころではなくなる。

そうならないために、写している箇所には必ず定規を当てておく。

 

目線の移りに苦労しない人であれば、これは必要ない。

 

クルミ

何の関係もないようにみえて、これが非常に重要である。

筆写の最中、利き手でない方の手はただぶらぶらしているのではない。

このクルミをいつも握っている。

①で左手を自由にしたのは、手汗対策だけではなくクルミを握るためでもある。

これが利き手の負担軽減になるのだ。

 

筆圧が強いほど、腕への負担が大きくなる。

経書の筆写は、心にぴんぴんとくるものがあって真剣になる。

どうしても筆圧が強くなる。

ペン先が紙面でふらふら踊るように、軽く書けない。

筆圧に注意と思ってサラサラ書こうとしても、気づけばゴリゴリ書いている。

腱鞘炎のリスクがぐんと上がる。

 

仕方がないとあきらめていたが、あるとき「力を籠めるのは必ずしもペン先でなくともよい」と気づいた。

大切なのは、どこに力を籠めるかである。ペン先に籠る力をどこか別にやってしまう。

そこでクルミを握ってみた。

筆写する時、左手でぎゅうぎゅうとクルミを握っている。

すると、ペン先に力が籠らない。

ペンを握る力も、筆圧も軽くして、より丁寧な文字を書ける。

手首への負担も大幅に軽減できる。

 

万年筆からボールペンに切り替えた後も、さほど負担を感じることなく筆写できるのは、このクルミのおかげかと思う。

もちろん、力を移すことが目的であるから、クルミでなくともよい。

 

まとめ

自分が意識していないだけで、筆写に役立っていることはほかにも色々あると思う。

ここでは、私が効果を自覚しているものだけをお話しした。

今後も、やり方を変えることがあると思う。

新たに良い道具や方法を発見したら、また紹介します。