周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

ブログの更新頻度について

ブログに対する姿勢を改めることにした。
論語を読んでいて、今の書き方は正しくないと思ったのだ。

 

これまで、ともかく書くことが大切と思って、そこそこ良いペースで書いてきた。

しかし、学んださきから書きまくるのは、軽率な気がしている。
深く考えず、咀嚼するのを待たずに書くのだから、重厚な文章にはならないだろう。

 

大いに積み重ねて、そこから小出しにするような書き方をしたい。
厳しく考え、自分で「このことは書いて良い」と思ってから書くようにしたい。

 

そう考えると、あまり書けることがなくなった。
まだ積み重ねが足りないのだろうと思う。

 

 

 

学問の積み重ねは、砂をサラサラこぼして山を作っていくようなものといわれる。
これはある意味で正しく、ある意味で正しくないと思っている。

 

苦労を伴うこと、根気がいること、そういった意味では砂山を作るようなものだ。

最初は目に見えて砂山が大きくなっていく。面白いようにどんどん学問が進む。

砂山がある程度大きくなると、いくら砂をこぼしてもなかなか山が大きくならない。実際には着実に大きくなっているのだが、結果が目に見えない。学問の進んでいることを実感できないから辛い。

学問には、そんなところがある。私は、これを辛いとはあまり思わないけれども。

 

また学問には、ある時、あるきっかけで悟り、飛躍することがある。

必ずしも一定のスピードで、砂山に砂をこぼし続けるようなものではない。

 

禅僧の悟りのようなものだ。

毎日毎日、ただただ坐禅する。進歩が感じられずに辛い。ひたすら砂をこぼして山を作るのと似ている。

しかし、あるとき悟る。

木から葉っぱがハラリと落ちるのを見て悟る。魚が水面を飛び跳ねたのを見て悟る。草を濡らす朝露の玉を見て悟る。

ある時、あるきっかけで悟り、飛躍する。

学問もこれと同じだろうと思っている。

 

この「悟る」ということが、最近徐々に増えてきた。

ごく小さな悟りであって、「気づき」くらいのことかもしれないが、なんでもない所で気づきがあり、長年の疑問が連鎖的に氷解してゆくことも多い。

やはり一種の悟りと思う。

 

今後は、更新の機会がかなり減るだろう。
しかし、ある悟りをきっかけに書けることがどんどん出てくる、不思議なくらい何でも書けるようになる、そんな日がいつか来るだろう。

そうならないと嘘だ。真面目にやっていれば、必ずそうなる。


その日が来るまで、ブログの執筆は週に1回でも月に1回でも、あるいは数ヶ月に1回でも良いから、極くゆっくりやっていきたい。

仲弓の「南面の才」を作る三要素

孔門四科十哲の一人に、仲弓ちゅうきゅうという人物がいる。

姓はぜん、名はよう、字は仲弓。

論語の第六篇、雍也ようやの雍とは冉雍仲弓を指す。

 

孔子は仲弓を、一国を治めるに足ると評した。

これは、仲弓が不佞ふねいであり、けいに居り、かんを行ったことによる。

 

 

不佞の人

仲弓は孔門の中、徳行において顔回に並ぶとされた人物である。

孔子が仲弓を褒めた章句は色々あるが、その筆頭が「不佞」である。

 

佞とは

不佞とはねいならぬこと。

佞とは口がうまく、人を喜ばせる才能があること。

いわゆる太鼓持ちである。

 

当時、佞とは必ずしも悪いこととされていなかった。

口がうまければ、出世の役に立つことも多い。

時には、上司をうまく諫めることもできるかもしれない。

 

しかし、そのような利点はあるものの、仁を害する所が大きいとして、孔子は大変に佞を嫌われた。

 

佞は不仁の種

佞は、口先で人を害することがある。

例えば、上司に取り入る場合の佞。

上司から「財政が厳しいがどうしたらよいか」と言われたとき、佞人ならば

「税金をこんな風にとればよろしいでしょう」

「この費用は人民にこんな風に課しましょう」

などと提案する。

上司がその案を取り入れ、佞人の評価は高まる。

しかし人民には害がある。人民に恨まれる。

人民を治める立場にありながら人民に恨まれるのは、不仁であるからだ。

佞は不仁の種である。

だから孔子は佞を大変に嫌った。

 

ひどい場合、佞人は口先で他人を焚きつける、あおる。

要らぬことまで余計に言って争いのきっかけを作る。

古来、佞弁ねいべんが乱のきっかけをなした例は多い。

 

 

不佞の仲弓

佞弁の逆は訥弁とつべんである。

仲弓は訥弁であった。

 

篤実で、腹の底から仁徳がある。

また、訥弁である。口数が非常に少ない。

ただし、仲弓の口数が少ないのは、おとなしいこととは違う。

佞を嫌うために、ぶっきらぼうな印象の人であったらしい。

 

佞人を好む人からすれば、これが面白くない。

才気に溢れ、徳があり、佞を嫌うぶっきらぼうな仲弓が近くにいれば、徳の薄い人は参ってしまうだろう。

自分の不徳を責められているような気分にもなる。

仲弓の存在そのものが疎ましくなってくる。

 

そこで、喜ばせることをひとつくらい言えば「可愛い奴」で済むが、それがない。

中には、小憎らしい奴と思う人も出てくる。

 

不佞で結構

仲弓をそんなふうに思う小人が、あるとき孔子に言った。公冶長篇の章句である。

 

「冉雍には仁がありますが、佞がないのが玉に瑕ですね。あれに少しでも口のうまいところがあったら、言うことなしですが」

 

それを聞いて孔子曰く、

 

「それは間違っている。佞など用いるべきものではない。

大体、佞などというものは、良い説を叩くためとか、良い政策に反対するためとか、悪い策を用いるためとか、ろくなことに用いられない。これが人民に害をなし、憎まれるもととなる。

仲弓が仁であるかどうかは知らないが、不佞であるのは仲弓の良いところである」

 

雍や南面せしむべし

孔子は、人を評価する際に「仁」の評価を容易に許さなかった。

仲弓についても、「其の仁を知らず(仲弓が仁であるかどうかは知らぬ)」と言い、「仁なり」の評価を許していない。

 

しかし、不佞であれば民を害することが少なく、不仁から遠ざかる。

治める側に立つこともできる。

雍也第六の冒頭の章句で、孔子は仲弓を以下のように評した。

 

雍や南面なんめんせしむべし。

 

南面とは、人を治める位を意味する。

昔、一国の君主となった者は、政事を行う際に北に背を向け、南を向いて臣下と向き合う。

これを天子南面てんしなんめん臣下北面しんかほくめんという。

南面するのは天子に限らず、一国を治める君主もそうである。

孔子は、仲弓は人を治める才能があると評された。

 

敬に居て簡を行う才

孔子が仲弓に対して南面すべしと評したのは、仲弓の徳と不佞だけが理由ではない。

仲弓は、人の上に立つ者として、また仁政を為すために欠かせない徳を備えていた。

すなわち、

 

けいに居りてかんを行う

 

という徳である。

敬とは

敬とは慎みの心であり、徳を修めるには不可欠なものとされる。

敬があり、慎んで学問と道の実践に励み、徳を磨いてゆくことができる。

自分に厳しく、何事も軽々しくせずにやるのが敬である。

簡とは

簡は、簡素簡略の簡で、敬の逆である。

物事にこだわらないことで、これもひとつに徳である。

簡であればこそ、世評にこだわらず、人に流されず道を守ることができる。

こだわりのなさが簡である。

 

仁政とは敬に居て簡を行うこと

仲弓は、敬に居て簡を行う徳を備えていた。

これは、人の上に立つにおいて、第一等の人物といえる。

 

自分自身は敬に居る。

自分に厳しく、軽はずみをせず、真剣に政事に取り組む。

そのような人の下で働くから、役人たちにも緊張感がある。

不正がはびこらず、クリーンな政治ができる。

不正のために人民が苦しむことも少ない。

 

 

人民に対するには簡でやる。

あまりこだわらず、柔軟にやってゆく。

人民の中には、無学なものもいる。善人も悪人もいる。貧乏人も富裕者もいる。それぞれ置かれている立場が異なる。

だから、こだわり過ぎることなく穏やかにやる。

 

簡のために、「人民に甘すぎます」「もっと税金を取りましょう」など、下の者から責められることもあるかもしれない。

しかし、簡でこだわらない。

苛政かせいに陥らず、人民の苦しみが減る。

 

為政者が敬に居て簡を行うならば、仁政になるのだ。

仲弓にはこの徳があった。

だから孔子は「南面せしむべし」と仰った。

 

敬に居て簡を行うのほか、

  • 敬に居て敬を行う
  • 簡に居て簡を行う
  • 簡に居て敬を行う

の組み合わせが考えられる。これらは全て悪政につながる。

 

敬に居て敬を行う

為政者が敬に居る。これは善い。

不正が起こらず良い政治が期待できる。

 

しかし、人民に対して敬を行うはよくない。

これは、自分自身に求める厳しさや重々しさを、一般の人民に求めることであるからだ。

徳あり志ある人物ならば、自分に厳しく敬に居ることもできる。

しかし、一般の人民には難しい。

四六時中、敬に居て緩みなく生きることを求めたところで、無理な話だ。

できないことを求めるのは過酷であり、惨酷である。

 

つまり、敬に居て敬を行うは苛政につながる。

 

簡に居て簡を行う

簡に居て簡を行うは、敬に居て敬を行うより悪い。仲弓の言葉では、これを「大簡たいかん」という。

敬に居て敬を行う場合、ともかく厳しいが上も下もゆるみがないだけに、軍事国家スパルタのような趣になる。政治が破綻するものではない。

 

しかし、簡に居て簡を行う場合、政治は破綻する。

上の者が簡である。締まりがなく、政治がまともに行われない。

下の者にも簡であるから、厳しく取り締まることはない。そもそも、上が機能していないから取り締まることができない。

上も下も不真面目で、上では不正が横行し、下でも騙し合いが日常茶飯事である。

災害が起こったり、他国に攻められたり、ふとしたきっかけでたちまち乱れて崩壊してしまう。

 

簡に居て敬を行う

最悪なのが簡に居て敬を行うものである。

上の者は簡で締まりがない。不真面目である。不正も横行している。

それでいて、下の者には敬を求める。真面目に働け、悪事はやるなと求める。

 

上の者が簡であるために、下の者が苦しめられる。

上の者の安楽のために、下の者が虐げられる。

 

これではもはや暴政である。下の者は納得しない。

災害の発生や他国の侵攻を待つまでもなく、内乱が起きて崩壊するだろう。

 

一身の修養を考える

以前、これらの章句を読んだときには大して感銘を受けなかった。

 

佞が良くないのは分かり切っていることだ。

敬に居り簡を行うことも、理解に苦しむようなことではない。

政治に興味はないし、あまり自分には関係ないことと思ったのかもしれない。

 

しかし色々考えると、不佞である、敬に居る、簡を行うというのは、政治に限らず人生一般に広く当てはまることだ。

ツイッターを始めたことで、これに気づかされたように思う。

 

ツイッターには佞人が非常に多い。

もちろん、ツイッターに限らず社会全体にいえることかもしれない。

しかし、ツイッターはネットの世界であるから、発言のハードルが低い。慎みを持ちにくい。佞弁も自由自在である。

 

ある有名人が不祥事を起こしたとする。

すると、ツイッターでは大きな話題になる。

退屈していた子供がおもちゃを見つけたように活発になる。

暇なのだなと思う。

 

人によっては、その有名人の情報を洗い、過去の発言などをほじくり回し、

「この人は今回こんな失言をしたが、昔もこんなことを言っていた」

などと騒ぐ。

とにかく言ったもの勝ちだから、曲解も多いだろう。

 

これは余計なことであって、佞弁である。

なぜ余計なことをいうのか。

他人の歓心を得たいからである。

あるいは、ストレスのはけ口にしたいからである。

理由は色々あるが、結局は私事である。

 

私のために余計なことを言う佞人がツイッターにはいくらでもいる。

そんな空間に身を置けば、自分も影響を受ける可能性がある。

不佞を貫く気持ちがなければ、佞人に同調し、面白がり、軽薄なことをやる恐れがある。

ツイッターを始めてから、私は「佞」ということをよく考えるようになった。

これは、ツイッターをやって良かったことのひとつである。

 

自分自身に不佞を厳しく求めるならば、それは敬に居るといえる。

敬に居らなければ、佞に陥る恐れがある。

佞に陥るのは、自分自身に不佞を求めていないからであり、簡に居るためである。

簡に居る人ばかりの空間であるから、ツイッターをやる以上、敬に居ることを強く意識しなければならない。

 

ただ、簡を行うことも大切にしたい。

自分は敬に居る、だからといって人にも敬を行うならば、これは道ではない。

自分は不佞に陥るまい、敬に居るべしと頑張る。

私は、簡に居り佞をなす人を嫌だと思うし、ツイッターを辞めようと思ったことも多々ある。

最近では、敬に居るは自分だけで良い、人には簡であるべしと考えるようになった。

 

人はどうでもよい。

簡に居り敬を行い、佞を為す人をあえて痛罵するようなことは避けたい。

 

仲弓の徳を深く考えていくうちに、生き方が少し柔らかくなったと思える。

昔同様、佞弁たくましい人が嫌いだけれども、それはそれ、と思う余裕が少しできた。

不佞、居敬、行簡、これはどれも困難なことであるが、ぜひ求めていかなければならないことと思う。

 

難しいことを簡単に書いてあるから、論語は油断がならない。

理想は「可もなく不可もなし」

「可もなく不可もない」

良くも悪くもない、無難、平凡といった意味で用いる。

なんとなく、見下した気分のある言葉だ。

 

可>可もなく不可もなし>不可

良い>普通>悪い

 

可もなく不可もなし、これは悪くないが、まだ足りないといった感じに用いられる。

少なくとも、可もなく不可もないことを理想的とは思わない。

 

しかし、孔子は「可もなく不可もなし」を理想とされた。

 

 

孔子の理想

「可もなく不可もなし」は、論語微子びし第十八の言葉である。

この章句の解釈は複雑で、今回の記事に盛り込むとややこしくなるので、詳しくは別の機会にお話しする。

 

孔子の批評

これは、孔子が数人の賢人を批評した章句である。

孔子は、以下のように批評した。

 

  • 伯夷はくい叔斉しゅくせいは志が高く、潔白であり、辱められなかった
  • 柳下恵りゅうかけい少連しょうれんは志をひくくし、我のみ清しとせず、辱めにも甘んじたが世渡りが上手であった
  • 虞仲ぐちゅうは、末子の季歴きれきに王位を継がせたいという父の志を酌み、兄の泰伯たいはくと共に夷狄の国へのがれた

 

これらの賢人に比べて、我はどうであるか。

孔子は、

 

「可もなく、不可もなし」

 

と仰った。

 

孔子は可にも不可にも偏らぬ

伯夷や叔斉のように、孤高・潔白で世間から抜きん出ているのではない。

柳下恵と少連のように、あえて自分を低くして小人に交わることもない。

 

虞仲のように、道を行うためといって隠遁してしまうこともない。

公冶長第五で、孔子は「いかだに乗って海を渡り、遠い国に行ってしまおうか」と悲嘆なされたが、結局「材を取る所なし」として本当に隠遁することはなかった。

 

つまり孔子は、

 

「確かにこれらは皆優れた賢人であるが、私は違う。

私は、天道に順って、どこにも偏らない。

伯夷・叔斉の偏りも、柳下恵・少連の偏りも、虞仲の偏りもない。

天道、自然の道理に任せてやる。

可にも偏らず、不可にも偏らない。

可でもなく、不可でもない。

だから、これらの賢人と私は違うのだ。」

 

と仰ったわけである。

 

天道に従うゆえに

現代的なニュアンスで「可もなく不可もなし」といえば、「良くない」「足りない」の意味が強調され、ややネガティブなものとなる。

しかし、孔子の仰るように

 

「天の道理に従う、ゆえに可もなく不可もなし」

 

と考えるならばどうか。

「可もなく不可もなし」は極めて理想的な状態であり、人間の完成はここにあるといって良いのではないか。

 

 「可もなく不可もなし」を夢見た公田先生

私の敬愛する公田連太郎先生も、「可もなく不可もなし」を理想とされた。

先生は、最晩年に朝日文化賞を受賞された。先生御年八十七歳、お亡くなりになる年のことである。

 

最晩年のお言葉

受賞に際して、先生は朝日新聞の記者にこう語られた。

 

「私の一生は、失敗の一生でした。

私は田舎者で、不器用で、世渡りの才とてなく、禅僧にもなれず、何の役にも立たず、八十余年、ただグズグズと生きてきただけです。

“われは可もなく不可もなし”

そう言える偉い人になることだけを夢みて。

しかし、それは叶わぬでしょう。

そして間もなく(先生ご自身の生涯が)終わるでしょう」

 

一貫不惑の先生

公田先生は、一生涯を通じて「可もなく不可もなし」を理想として歩まれたのではないか。

私はそのように思う。

 

先生は若いころから大変に学問され、万巻の書を読み、しかし「物知りにはなりたくない」といつも仰っていた。

若き公田先生の「物知りになりたくない」という言葉が、最晩年の言葉につながる。

 

先生が物知りになることをおそれたのは、孔子が批評されたような賢人になることを懼れたのではないか。

孔子のように「可もなく不可もなし」を、若いころからただ一筋に目指して歩まれたのではないか。

 

論語を読み、よく理解できなかった公田先生の言葉が少しずつ分かるようになってきた。

浅い解釈かもしれないが、私には喜びである。

 

 

 

可もなく不可もなし。

大変良い言葉である。

孔子のようになりたいと思ってきたが、具体的にどうなりたいのか、ぼんやりしていた。

 

今は、「可もなく不可もなし」を目指せばよいことが分かっている。

今年、自分なりに一生懸命に学問してきた。

「可もなく不可もなし」の理想が分かったことで、自分の進歩を少し実感できた。

恍惚とするような嬉しさがある。

 

孔門の人々

論語について書くうちに、それぞれのお弟子を詳しくお話しする機会も出てきた。

弟子の人物やエピソードを知ることは、論語の理解に役立つ。

整理のために、特定のお弟子を取り上げた記事をここにまとめる。

 

四科十哲

孔子のお弟子のうち、特に優れた十人のお弟子を「孔門十哲」という。

また、この十人を徳行、言語、政事、文学の四科に分けて「四科十哲」ともいう。

 

徳行

顔回

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仲弓

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冉伯牛

 

閔子騫

 

言語

子貢

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宰我

 

政事

子路

 

冉有

 

文学

子夏

 

子游

 

 

十哲以外のお弟子

公冶長

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怒りを遷さず、過ちを犯さず。亜聖・顔回の真骨頂

孔子の一番弟子は顔回がんかいである。

聖人に近い人物であり、敬意をもって顔子がんしと称されることも多い。

孔子は聖人、聖人に連なる大賢人であるとして、顔回孟子亜聖あせいという。

 

なぜ顔回が亜聖といわれるか。

顔回の真骨頂はどこにあるのか。

今回はこれを記事とする。

 

 

孔子の一番弟子

姓はがん、名はかい、字は子淵しえん

顔淵がんえんとの呼称は、姓と字を合わせたものである。

三国志関羽に斬られる、袁紹配下の顔良顔回の末裔とされる。

亜聖から猛将が生まれたのだ。

道統を継がねば、血統 など頼りないものだ。

 

孔子顔回を愛した逸話は多い。

詳しくは別の機会にお話しするが、孔子顔回の見識を度々褒めている。

ドラマ『孔子春秋』にも、そのような描写は多い。

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顔回の人となり

顔回の人となりを表す言葉が、論語の雍也第六に出ている。

 

哀公あいこう問ふ。弟子ていしれか学を好むと為すかと。

孔子こたへて曰く、顔回なる者有り。学を好み、怒りをうつさず、過ちをふたたびせず。

不幸短命にして死す。今や則ち亡し。

未だ学を好む者を聞かざるなり。

 

哀公(魯国の君)が問うた。

「先生の弟子の中で、学問を好むのは誰でしょうか」

孔子は答えた。

顔回という弟子がおりました。学問を好み、怒りを遷すことがなく、過ちを犯さない弟子でした(※)。

しかし、不幸にして早逝そうせいしましたので、今はもうおりません。

顔回のほかには、学問を好む者はおりません」

(※同じ過ちを二度と犯さない、としなかった理由は後述)

 

これは、孔子の最晩年の言葉である。

顔回が亡くなった年は正確に分からないが、新釈漢文大系・吉田賢抗先生『論語』の孔子略年譜では紀元前481年となっている。

孔子が亡くなったのは、その2年後の479年。

哀公がこのように問うたのは、この最晩年のことである。

 

学を好む顔回

学を好む者を問われ、孔子顔回の名を挙げられた。

そして、顔回の死後は学を好む者がいないと仰った。

 

孔子の門下には、学問が好きな者はたくさんいただろう。

春秋戦国時代は、中国史上最も混乱した時代ともいわれる。

孔子が教える聖人の道は衰えていた。富貴とも無縁な道である。

その苦しい道にあえて参じた弟子たちが、学問を好まないはずはない。

 

孔子は、なぜ顔回だけを「学を好む者」といったのか。

「学を好む」との評価は、なかなか得られるものではない。

顔回のように、極貧の中にいても一貫不惑で道を楽しんでいる。

そして、後述の通り顔回は中庸を得た。

 

顔回を「学を好む」の基準に据えるならば、他のお弟子は及ばない。

学を好む者すなわち顔回であるならば、他のお弟子は学を好むとはいえない。

そこで、「顔回亡き今、学を好む者はおりませぬ」と仰った。

 

怒りを遷さぬ顔回

顔回の好学が実地に現れたことといえば、怒りを遷さぬことである。

 

一般的な解釈

「怒りを遷さず」について、論語の解説書の多くは「Aへの怒りをBに向けないこと」、つまり八つ当たりしないこととしている。

宋の大儒・伊川ていいせん先生の解釈も同じである。

近思録きんしろく』に、伊川先生と門人の問答が載っている。

 

あるとき、門人が伊川先生に尋ねた。

顔子の『怒りを遷さず』ということがありますが、これは『甲への怒りを乙に向けない』という解釈で間違いないでしょうか」

「その通りである」

「これは、そんなに偉いことでしょうか。顔子でなくともできそうですが」

「一見たやすいが、実に困難なことだ。ある人に怒りながら、別の人に怒らず居られるのは道理が分かっているからだ」

 

確かに、怒りを遷さずというのは大変なことである。

Aに100の怒りを向けた直後、無関係のBに接する。このとき、Aへの怒りのうち、わずかに1の怒りでさえBに向けない。ゼロの状態で接する。

なかなかできないことだ。

これができた顔回は偉いというのも納得できる。

 

私も、ごく最近までこのように解釈していた。

しかし、この解釈には不満もあった。

確かに、八つ当たりしないことは難しいが、孔子の門人の中にはそのような人はたくさんいたのではないか。

 

八つ当たりしなかったのが顔回ただ一人というのはおかしい。

孔子のお弟子のうち、顔回以外は誰もが八つ当たりしていたとすれば、幻滅してしまう。

 

怒りを遷さぬは中庸の道

最近、この問題が氷解した。

根本通明先生の解釈によってである。

この記事を書こうと思ったのも、その喜びが大きいためである。

 

 

「怒りを遷さず」とは、八つ当たりしないだけではない。

怒るべき時に怒り、八つ当たりせず、なおかつ正しく怒ることである。

 

50で怒るべき時、30しか怒らない、あるいは100怒ってしまう。

50であるべきなのに、30や100に遷ってしまう。

怒りを遷すとは、このことである。

 

これは、中庸を得ていないということだ。

怒るべき時に怒るは中庸である。

ただし、50で怒るべきとき、100で激怒するのは怒りを遷すであり、中庸ではない。

 

中庸を得ていれば、八つ当たりも起こりようがない。

50で怒るべき人に50で怒り、

100で怒るべき人に100で怒り、

怒るべきでない人には全く怒りを向けない。

 

 

八つ当たりせぬくらいのことは、孔門では当たり前のことである。

八つ当たりせぬだけでは足りない。

中庸を得ており、それゆえに八つ当たりも起こりようがない。

 

これが難しい。

顔回であってはじめてできた。

 

過ちを弐せぬ顔回

顔回は、過ちを繰り返さなかった。

孔子のお弟子のうち、顔回だけに許された賞賛である。

 

これにも二通りの解釈がある。

一般的な解釈は、一度犯した過ちを二度と繰り返さないこととする。

しかし「怒りを遷さぬ」を「中庸を得ていたこと」とすると、この解釈は成り立たなくなる。

 

中庸の道を得ている人は、ものごとの正しい在り方や程度が分かる。

何が中庸で、何が中庸でないかが分かる。

ある物事に対して、中庸の道に照らして心の中で考える。

中庸を得た人物がこのように考え、行動するならば、失敗を犯すことはないはずだ。

 

この解釈であれば、「過ちを弐せず」とは「”一度犯した過ちを”繰り返さない」ではない。すなわち、

  1. 心の中で「こうあるべきか」と思う。
  2. 中庸を考え、「いや違う、それは中庸の道ではない。正しくはこうだ」と悟る。

と解釈すべきだ。

1で中庸を得ず、しかし2で中庸を得る。

これが「過ちを弐せず」である。

 

孔門のうち、好学であり中庸を得ており、怒りを遷さぬ人物は顔回ひとりであった。

中庸を得ていたから、過ちを犯すことがないのも顔回ただ一人だった。

 

実際、論語には高弟が孔子に戒められる話がたくさんあるが、顔回だけはそれがない。

一度は失敗するが、二度は失敗しない。

もしそうであれば、ひとつくらいは顔回が戒められる話があるはずだ。

特定の弟子の失敗を隠すほど、論語はせこくない。

ましてや、顔回が立派な人物であるほど、「その顔回でもこのような失敗があった」として掲載されたはずだ。

 

中庸こそ顔回の真骨頂

このように解釈すると、顔回が亜聖といわれる理由がよくわかる。

中庸を得た顔回は、聖人といってよい。

ただ顔回は、

「自分は先生(孔子)に遠く及ばない、努力を重ねて追いついたと思ったら、先生は遥か遠くに行っておられる」

といった。

その孔子への遠慮から亜聖とよぶ、そのくらいなものである。

 

中庸を得ており、怒りを遷すことがない。

また、何でも中庸に照らして考える。

心の中で一度間違えることがあっても、それが言動になる前に心の中で正す。

だから、失敗することもない。

 

顔回は、学問してこの境地に至ったのだ。

顔回こそ、「学問すれば聖人になれる」ということの証拠である。

 

「好学」とは

現代では、本を読んだり、講義を聞いたりすることが好きな人を「好学」と評するが、孔子に言わせれば、それだけでは好学とは言えない。

ましてや、ただお金を稼ぐとか、

ただ資格試験に合格するとか、

ただ試験でいい点数を取るとか、

ただ知識をたくさん身につけるとか、

そんなものは好学ではありえない。

 

好学とは、寝食を忘れるほど、熱烈な姿勢があってはじめて許される評価である。

しかし、その姿勢があっても結果が伴わなければ、孔子は好学とは言われまい。

学問に励み、中庸を得た人であって、はじめて好学といえる。

好学とは、熱心に学問する姿勢は前提であって、それによって中庸を得た人への評価なのだ。

 

中庸を得るために学問する、これだけでは不十分だ。

学問して中庸を得た、これが好学の証明になる。

孔門において、「好学である」の評価は大変厳しいものなのだ。

 

ゆめゆめ、自分のことを「好学」などと思うまいぞ。

顔子の道の厳しさを思い、自戒の念を強くした。

弁才縦横、商才抜群、子貢は瑚璉なり

孔子のお弟子の中でも、異彩を放つ人物といえば子貢しこうである。

顔回、曾参、子路など色々な人物がいるが、子貢は特に変わった趣のある人物である。

今回は、子貢を取り上げる。

 

 

 

子貢の人物

子貢は、孔子の弟子の中でも特に優れていた。

子貢はあざな、姓は端木たんぼく、名は

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弁舌の人

弁舌に優れ、孔門十哲の一人に数えられた。

左伝には、子貢が外交官として活躍した内容が散見される。

史記の仲尼弟子列伝になると一層華やかで、天下を駆け回って弁舌を縦横に振るい、魯を国難から救った様子が描かれている。

このことは、いずれお話しする。

 

子貢の商才

孔子の弟子の中でも、子貢は特異な存在である。

商才に恵まれていたのだ。

 

ドラマ『孔子春秋』は、弟子入り前の子貢を“イヤな金持ち”として描いている。

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弁才や商才は天賦のものだ。

それで道徳に欠けていたとすれば、小才子といえる。

確かに、弟子入り前の子貢はこのような感じだったかもしれない。

ボロボロの服を着て平然としていた子路、極貧のうちに早逝した顔回など、孔子の弟子には貧乏した人が多いが、子貢は抜群の理財家であった。

相場の騰落をよく当て、今でいう商品相場で大いに儲けたという。

史記の貨殖列伝にも子貢の話が出てくる。

 

「子貢は、孔子の弟子の中で一番富裕であった。

弟子の中には酒かすやぬかさえ食べられなかった者もいたが、子貢は四頭立ての馬車に乗り、絹の束を贈り物にして諸侯と交際した。

どこに行っても、その国の君主は子貢を対等の礼儀で迎えた。

孔子の名が天下に広まったのは、子貢がいたからである」

 

金持ちな君子

子貢の偉いのは、単なる相場師や商人でなかったことだ。

儲けた金の使い方がうまく、孔子をよく助けた。

孔子の活動の陰には、子貢の儲けた金がかなり動いたのではないか。

 

論語の編纂にも、子貢の商才の功績が大きいと思われる。

孔子の死後、数十人の高弟が集まって論語を編纂した。

その中心の一人が子貢である。

編纂にかかった期間は明らかではないが、長い期間を要したことは間違いない。

当然、費用も馬鹿にならなかったであろう。

子貢は、孔子の死後6年間にわたって喪に服したほど、孔子を尊敬していた。

論語編纂の熱意は人一倍強かったと思われる。

多額の私財を投じていたとしても、なんら不思議ではない。

孔子の生前も死後も、子貢の商才が貢献したところは大きいと言える。

 

子貢は瑚璉なり

論語公冶長篇に、子貢と孔子のやり取りがある。

 

子貢問ふ。如何いかん。子曰く、なんぢなり。曰く、何の器ぞや。曰く、瑚璉これんなり。

 

子貢が孔子に問うた。

「先生、私(賜)はどうでしょうか」

孔子は仰った。

「お前は器だよ」

「どんな器でしょうか」

「瑚璉だ」

 

何かの折に、子貢が孔子に自分の評価を問うた。

孔子が他の弟子について語っているのを聞いて、「なら私はどうですか」と聞いたのかもしれない。

孔子が仰るには、「お前は器である」。

 

君子は器ならず

子貢は、これを嬉しいと思わない。

なぜならば、為政篇で孔子が「君子は器ならず(君子は器のようなものではない)」と仰っているからだ。

 

器とは、色々な器物を広く指すもの。

現代でもお皿やお椀を「うつわ」という。

机や椅子も器である。

つまり器とは用途の決まっているもののこと。

 

コップは、液体を入れることにしか使えない。

応用しても、棒状のものを立てたり、小物を入れたりといったところ。

用途が限定されている。

机はものを書くため、椅子は座るためと、用途が限定されている。

 

君子とはそんなものではない。

器ではない。用途が限定されない。

 

一国の宰相になれば、宰相として立派に務める。

下役人になれば、下役人として立派に務める。

仕えずにいれば、在野で活躍する。

子としては親に、親としては子に対し、立派な子であり親である。

生きている間は生きている者として、天下に利益をもたらす。

死後は死後として、天下に利益をもたらす。

立場や時間に影響を受けず、無限に活きるのが君子というものである。

 

孔子は、君子をそのように考えた。

 

子貢の才能を褒める

孔子は子貢を器と評した。

しかし私は、子貢は器ならぬ君子であると思う。

 

弟子としてよく孔子に仕え、

外交官として弁舌を振るって国難を救い、

理財家として道の普及に貢献し、

論語編纂に尽くして死後に志を伸ばしている。

 

しかし、孔子は子貢を「器なり」と評した。

このように尋ねた時は、まだ未熟で器の域を出なかったのかもしれない。

君子は器ならずの理想を知っていたから、子貢は孔子の評価を不満に思った。

「どんな器でしょうか」と重ねて尋ねた。

 

器は器でも、特別なことに用いる器もあれば、日常生活に欠かせない器もあれば、いつだって役立たない、使い物にならない器もある。

豪華絢爛な器もあれば、素朴で味わい深い器もある。欠けたボロの器もある。

 

孔子は「お前は瑚璉だ」と仰った。

瑚璉とは、大事な祭祀に用いられる、貴重な器である。

当時は政事と祭事が密接であったし、孔子は祭祀を重んじた。

祭祀に欠かせない器は、政事に欠かせない器とイコールである。

つまり、孔子は子貢に対し、

「お前は、国の大事に欠かせない、貴重で立派な人物だよ」

と評したわけだ。

 

私的解釈:孔子の戒め

しかし、孔子一流の戒めも含まれている。

それは「瑚璉」にある。

 

瑚は、の祭祀に用いられた器である。

璉は、殷の祭祀に用いられた器である。

孔子の時代、周の祭祀には簠簋ほきという器が用いられていた。

 

(※根本通明先生の『論語講義』、諸橋轍次先生の『大漢和辞典』では瑚を夏のもの、璉を殷のものとする。

逆に、瑚を殷のもの、璉を夏のものとする説もある。吉田賢抗先生の『論語』ではこれを採用している。)

 

 

子貢は瑚璉であっても簠簋ではない。

「夏や殷の時代であれば、お前は国の大事に欠かせない立派な人物といえるが、今(周の時代)には適さないね」

という評価とも受け取れる。

 

周は二代に監みて

私なりの解釈だが、これは「まだ中庸に至らぬ」の意味ではないかと思う。

論語八佾篇に、こんな言葉がある。

 

周は二代にかんがみて、郁郁乎いくいくことして文なるかな。吾は周に従はん。

 

周は、夏・殷の二代を比べ、手本にしつつ礼儀を整えた。

夏の礼儀は、行き届かないところがあった。

殷の礼儀では、夏の行き届かないところを改めたが、却って行き過ぎるところもあった。

文は文飾、郁郁乎は飾りの美しいこと。

周は夏・殷のそれぞれの善いところを取り、悪いところを改め、礼儀をより美しいものへと整えた。

だから、私は周の礼儀に従おう、という孔子のお言葉である。

 

当時の子貢は中庸を得ぬか

夏は行き届かない、

殷は行き過ぎる、

周は丁度良い中庸。

 

行き届かぬ夏は瑚、

行き過ぎる殷は璉、

丁度よく中庸を得た周は簠簋。

 

子貢は、行き届かぬ場合や行き過ぎる場合に力を発揮する「瑚璉」である。

例えば、国際間の緊迫した状況、つまり「行き過ぎた局面」では弁舌を振るい、

布教活動にお金が足りない状況、つまり「行き届かぬ局面」では商才を発揮した。

 

孔子は子貢に対し、

「難事に瑚璉として働ける才能は立派なものだが、平常時にも簠簋として働ける才能がまだ足りないね。励みなさい」

という意味で、

なんぢは器なり、瑚璉なり」

と評したのではないか。

 

私はそんな風に考えている。

鳥の声を解した公冶長

論語公冶長第五の冒頭に、公冶長こうやちょうなるお弟子の話が出てくる。

公冶長という人の記録はほとんどなく、どのような人であったか分からない。

 

公冶長は鳥の声を理解したといわれる。

私も鳥は好きだから、公冶長について色々調べて見ると、大変面白かったので記事とする。

 

 

 孔子曰く

子、公冶長を謂ふ。めあはす可きなり。縲絏るいせつの中に在りと雖も、其の罪に非ず。以て其の子を之に妻はす。

 

孔子が公冶長について仰った。

「公冶長なら、我が娘をやってもよいだろう。

獄中に入ったこともあるが、公冶長の罪ではない(無実の罪であった)。」

そして娘を公冶長に嫁がせた。

 

 孔子の人物評価

一般的な論語の解説書では、公冶長の人物についてあまり言及していない。

記録が残っておらず、よく分からないからだ。

公冶長は、縲絏つまり現代で言えば「前科者」であるにもかかわらず、孔子は娘を嫁がせた。

孔子は、公冶長の人物を正しく評価した。

前科者であれば世間の目は冷たい。子をやりたいと思う親も少ない。

しかし、孔子はそんなことに頓着しなかった。

人を正しく評価し、正しく付き合うことの大切さを教える章句であるとする。

 

たしかにその通りである。

この章句の解釈はそれで良いと私も思う。

しかし、公冶長がどのような人であったかを知ると、この章句がもっと味わい深くなる。

孔子が娘をやったくらいだから、相当な人物であったはずだ。

孔子が高く評価した公冶長とは、どんな人であったか。

そこが面白いところである。

 

 公冶長のはなし

公冶長のことは、論語の解説書である義疏ぎそ(皇侃の『論語義疏』)に載っている。

それによれば、公冶長は鳥の声が理解でき、それがもとで罪に問われたことになっている。

吉田賢抗先生の『論語』も、諸橋轍次先生の『論語の講義』も、これを荒唐無稽なこととしている。

また皇侃自身も「奇妙な話だが、そういう話が伝わっているから掲載する」といった態度で、信用していない。

 

しかし、根本通明先生は違った見方をした。

信ずるに足るとして、公冶長のことを詳しく教えている。

 

公冶長が捕らえられた経緯  

公冶長は鳥の声が理解できた。

ある時、公冶長は衛の国から魯の国に帰る途中、鳥が友に呼びかける声を聞いた。

なんでも、

「渓谷に人の死体があって、腐敗している。その肉をつつきにいこう」

という。

公冶長は、衛と魯の間の渓谷で誰か死んでいるらしい、と悟った。

 

公冶長自身には特に関係ないことだから、気にせず歩いていた。

すると、老婆が道で泣いている。

「お婆さんどうなさいました」

公冶長が尋ねると、

「先日、一人息子が家を出たまま帰ってこないのです。もう随分日が経ちましたから、死んでしまったのだと思います。せめて葬ってやりたいが、どこにいるか分からずに泣いております」

という。

 

公冶長は、おそらく鳥の話にあった死体がそれであろうと思い、

「息子さんは、あっちの渓谷にいるはずです。さっき、鳥が『死人の肉を食おう』と言って鳴いたのを聞きましたから」

と、親切に教えてやった。

藁にも縋る思いで老婆が行ってみると、そこに息子の死体があった。

 

その後、老婆は村の役人に息子のことを伝えた。

「息子があっちの渓谷で死んでおりました。何で死んだか分かりませんが・・・」

「あっちの渓谷というが、お婆さん、あそこは人のいくような場所ではないよ。どうやって死体を見つけたの」

「公冶長という旅の人が教えてくれました。そのように鳥が鳴いていたそうです」

 

当然、役人は怪しんだ。

鳥の声がわかるはずがない。

公冶長が殺したから、場所も知っていたに違いないと考えた。

 

これが、公冶長の捕まった経緯である。

 

無罪放免となる

当時、すでに孔子の名前は広く知られていたと見えて、そのお弟子である公冶長を粗末に扱ったり、話も聞かずに断罪したりすることはなかったようだ。

捕らえられた公冶長は、牢獄の役人から尋問を受けた。

 

「あなたは孔子のお弟子でしょう。それに、人を殺すような人にも見えません。どうして殺したんですか」

「殺してはおりません。私には鳥の声が分かるのです。鳥の声が聞こえたばかりに獄中に入れられました」

「そうはいっても、とても信じられません。本当に鳥の声がわかるなら別ですが・・・。鳥なら何でもいいんですか」

「何でもかまいません」

「なら、そのうちカラスでもトンビでも出てくるでしょうから、試してみましょう。本当に理解できるなら、あなたは無罪放免になりましょうが、もし理解できなければ殺人罪ですからね」

 

それから60日間、公冶長は獄につながれた。

60日は長すぎるともと思ったが、よく考えると、鳥と鳥が声を交わしているような場面にはなかなか出くわさない。

それで、公冶長も長く待たされたものと思う。

 

さて60日後、2羽の雀の子が牢の周りを飛び回って、何やら鳴き合っている。

役人は急いで公冶長に知らせ、鳴き声を聞かせた。

公冶長は雀の声を聞きながら、頷いたり、笑ったりしている。

 

どうも理解しているらしいと思い、役人は公冶長に尋ねた。

「雀は何と鳴いていますか」

嘖々𠻘々さくさくしゃくしゃくと鳴いていますね」

 

さくとは動物がやかましく鳴き合うさま。

𠻘しゃくは噛んだり味わったりすること。

嘖々𠻘々とは、ご飯にありつけるぞと騒いでいる様子。

 

役人が「どういうことです」と聞くと、公冶長は以下のように説明した。

 

「ここから離れた場所に、白い蓮のたくさん咲いたところがあります。

そこに道があります。先ほど、荷車を引いた人が通っていきました。

荷車には籾と黍が載せてありましたが、あんまり多く載せていたから、荷車がひっくり返った。

荷車を牽いていたのは牡牛でしたから、その拍子に角が折れてしまいました。

俵が破けて籾や黍がたくさんこぼれ、全部は拾えなかったのでまだ路上に散らかっています。

雀が騒いでいたところによると、大体こんな話でした」

 

役人は、あまりにも具体的で驚いたが、すぐに信用するわけにはいかない。

部下に見に行かせた。

すると、全て公冶長の言う通りであった。

その後、念のためにツバメなどの声でも試したが、全て理解できていた。

 

これによって、公冶長は無罪と分かって放免された。

 

動物の声を聞く人々  

さて、問題となるのは公冶長が本当に鳥の声を解したか、である。

論語の解説書は、軒並みこれを荒唐無稽としている。

 

しかし、動物の声を人間が理解した例は、孔子の時代には色々ある。

特殊能力といえば特殊能力だが、公冶長だけが鳥の声を聞いたわけではない。

 

夷隷・貉隷

私自身は、公冶長は本当に鳥の声を解したと思う。

当時、周の官制には動物の声を聞く役があったのだ。

夷隷いれい貉隷ばくれいという役職である。

 

夷隷は鳥や牛などの動物を養う役、貉隷は野生の動物を手なずける役である。

夷隷は飼っている鳥や牛の声を理解でき、貉隷は野生動物の声を理解できたという。

夷隷・貉隷は、動物の言うことを理解するだけではなく、動物の鳴き真似で人間側の意思を伝えることもできたという。

 

獣医

また、周の時代にはすでに獣医があった。

しかし、現代のようにレントゲンなどの技術がないため、動物が病気になってもどこが悪いか分からない。

それでは治療はできない。

当時の獣医は、動物の声を理解した。

どこそこが痛い、悪いと動物に問うて、理解し、薬などを与えたという。

 

夷隷、貉隷、獣医など、動物の声を解する人が行政の一部を担っていたのだ。

全く荒唐無稽な話とは思われないし、公冶長が鳥の声を解したことも十分にあり得ると思う。

 

介の葛盧

周官以外では、左伝にも似た話がある。

僖公29年の話。

介という国の葛盧かつろという君公が魯に来た。

葛盧は、動物の声が分かる人であった。

魯は葛盧を歓迎して宴を開き、贈り物をした。

贈り物の中に牛がいた。

葛盧は、牛の鳴き声を聞いてこういった。

 

「この牛は、三頭の子を産みました。

しかし、三頭すべて祭りの生贄いけにえに使われたようです。

鳴き声で、そう言っています」

 

調べて見ると、葛盧の言う通りであった。

 

 

まとめ

公冶長のような例は色々ある。

根本通明先生は、動物の声を学ぶ語学教育のようなものもあったが、周が滅んで夷隷・貉隷といった役職もなくなり、廃れていったのだろうと書いている。

私も、そんなところかなと思う。

 

占いなどもそうだ。

左伝を読んでいると、当時の占いは不思議なくらいに当たっている。

それは後の創作であると言えばそれまでだが、何でもそのように考えると味気ない。

また、科学的でないものを全て否定すれば、そもそも祖先崇拝や陰陽といった根本的なことまで否定することになり、儒学が成り立たなくなるのではないか。

 

動物の声を聞いた人や、神業のように占いを当てた人は確かにいたのだろう。

そのように考えたほうが、儒学を学ぶにはよいと思う。

 

親の年齢を知る孝行

親孝行というものは、頭では大切に思っていても、いざ実践となると難しい。

そんなふうに思われがちである。

しかし、親孝行などというものは、ごく当たり前のことである。

当たり前に理解でき、当たり前に実践できるものだ。

要は、考え方ひとつである。

 

 

孝行は簡単

孔子は、孝行を幼いころからの心がけとして教えた。

言い換えれば、幼い子供でも十分に実践できることとして教えたのだ。

孔子は、実践困難なことを、当たり前のこととして子供に教えるようなお人ではない。

 

もちろん、孝行にも色々ある。

曾子の曾晳(曾子のお父上)に対する孝行は、大なる孝行であった。

曾元(曾子のご子息)の曾子に対する孝行は、これに比べると小さかったとされる。

 

孝行にも色々あって当然である。

いきなり聖人君子の大なる孝行を実践しようとしても、それは難しい。

しかし、小さな孝行ならば誰でもできる。

 

そもそも、現在、親孝行に難しさを感じているならば、これまでの実践経験が乏しいのではないかと思う。

程度の差こそあれ、実践してきた人は小さな孝行が簡単であることを知っている。

そこから押し広げていくことが簡単であることも知っている。

 

親の年齢を知ること

まずは小さな孝行により、第一歩を踏み出すことが肝心だ。

第一歩はどこに据えるべきか。

 

論語とは、つくづく実践的な書物である。

論語には、第一歩として誰でも簡単に始められる孝行を色々に述べている。

例えば、里仁篇で孔子は以下のように仰っている。

 

父母の年をは知らざるべからず。一は則ち以て喜び、一は則ち以て懼る。

 

親の年齢は知っておかなければならない。

その理由は二つ。

ひとつは、親の年を思うたびに、長く元気でいてくれることを喜ぶ。

もうひとつは、親の年を思うたびに、健康を損なう可能性が高まったり、亡くなったりする時期が近付いていることを懼れる。

 

親の年齢を知る孝行

親の年齢を知らなければ、喜びも懼れも抱きにくい。

親の年齢を知るくらい、誰でもできる。

親の年齢を知れば、そこから喜びや懼れが生まれる。

この思いそのものが、小さくはあるが立派な孝行である。

孝行を実践しかねて、親の年齢による喜びも懼れも抱かないままいるよりも、よほど孝行であるといえる。

 

次なる孝行への足掛かり

親の年齢を知り、喜びと懼れを抱くことは、次なる孝行へと進む足掛かりにもなる。

 

親の年齢を知らずとも、誕生日は知っている人は多かろうと思う。

私も、孔子の言葉を意識するまで、親の年齢は知らず誕生日だけ知っていた。

親の年齢を知れば、誕生日を知っていることも活きてくる。

 

誕生日、親がひとつ年をとった。

まず喜びがある。めでたいから祝ってやろうという気持ちになる。

懼れもある。親にはあと何回誕生日がくるか。そんな気持ちも起こって来る。

 

遠方にいる場合、懼れを強く感じるかもしれない。

私はそうだった。

親にはあと何回誕生日がくるか。

遠方であまり帰省できない。あと何回会えるか。

毎年1回帰省しているなら、あと何回くらいと大体わかる。

意外と少ないことに気が付く。

親が今50歳、毎年1回帰省しているなら、親が100まで生きても会えるのはたった50回にすぎない。

 

そこで、帰省の回数を増やそうとか、親に電話する回数を増やそうとか、色々な思いになってくる。

近くに住んでいる人や、実家に住んでいる人も、そのありがたさが分かる。

この思いがあれば、ひとつ上の孝行を実践するのはたやすい。

年齢を知っているところから出た、より大きな孝行といえる。

 

誕生日プレゼントは大きな孝行

親の年齢を知り、誕生日を知っていると、めでたいからプレゼントをあげよう、といった気持ちにもなる。

懼れも同じ。あと何回誕生日を祝えるか、何回プレゼントを買ってやれるか。

そう考えると、親の誕生日を忘れることはないし、プレゼントの機会を失うことを懼れるようになる。

 

日常的にプレゼントするのも、もちろん良い。しかし、誕生日プレゼントをしたいと思えない人には、日常的なプレゼントには気が付きにくいだろうし、人によっては気恥ずかしさもあるだろう。

だから、節目節目に祝う。

 

プレゼントは絶対に必要か。

もちろん絶対ではない。

お金がなければ、お祝いの言葉だけでもよいだろう。

しかし、お財布と相談しながら、相応にプレゼントなどあげたほうが孝行の道にかなっている。

私は、プレゼントをあげることも立派な孝行であると考えている。

 

親に心配をかけるは不孝

論語為政篇から、これが分かる。

 

孟武伯が孔子に問うた。

「孝行とはどうすることでしょうか」

孔子は、

「父母には、病気のこと以外で心配させないことだ」

と仰った。

 

父母に心配をかけないことも立派な孝行である。

だから孔子は里仁篇で、

 

両親がいる間は、あまり遠方へ外出しないほうが良い。

もし遠方へ行くならば、行先などを必ず伝えよ。

 

と教えている。

 

孔子の時代、遠出は危険なことであった。

これは、旅行の「旅」の字の由来を知るとよくわかる。

これについては別の機会に詳しくお話するが、ともかく遠出は危険であった。

親も心配することだから、できるだけ遠出するな、やむを得ず遠出するならば心配を減らすようにせよと教えたのだ。

 

ともかく、親に心配をかけるのは孝行の道ではない。

心配をかけなければ、かけないだけ孝行の道に適う。

 

病気は仕方ないけれど

とはいえ、病気だけは仕方ない。

自分が注意していても、交通事故でケガすることがある。

健康管理に気を付けていても、風邪をひくことがある。

顔回のように、おそらく健康上の問題で、親より先に死んでしまうこともある。

 

健康に気を付けるのも孝行だが、どうしようもないことがある。

ならば、それ以外ではできるだけ親に心配をかけないのが良い。

孔子はこれを孝行と仰った。

 

親の心配を減らす孝行

ここから、プレゼントが孝行であるといえる。

プレゼントすれば、親の心配を減らせるのだ。

 

例えば、社会人の場合。

経済的に自立している人がそれなりのプレゼントをすると、プレゼントするだけの余裕があることが分かり、親は子に対して経済的に心配しなくなる。

 

また、自立して一人暮らしをしたり、遠方に引越したりすれば、親と共有する時間が減る。

親の手を離れ、親子の縁が薄れることを寂しく思う親も多い。

実際に、就職を機に親子の縁が薄れることが多いようだ。

そこで、誕生日を祝い、プレゼントを渡し、親子で時間を共有する。

親子の縁を再確認すれば、親の心配は減る。

このとき、仕事の話などしてやれば、親はさらに安心する。

これは孝行である。

 

学生の場合。

学生であれば、経済的な余裕のない人も多かろう。

それでも、何かプレゼントしてみる。

親には、きちんと勉強しているか、なにを勉強しているか、分からないかもしれない。

社会へ向かってしっかり成長しているか分からない親もいるだろう。

そういう心配を和らげるにも、プレゼントをする。

それで、親がともかく優しい子に育ってくれたと思えば、これは孝行である。

学校の事はよく分からないけれども、まあ子供を信じて見守ろうという気になるかもしれない。

プレゼントを機に親密な時間を共有できれば、学校のことや将来のことなども話せる。

それによって、いくらかでも親が安心すればよい。

 

子の立場に関係なく、父にプレゼントをあげると、母は父親思いの子であると思い、嬉しい。

母にプレゼントをあげると、父は母親思いの子であると思い、嬉しい。

どれもみな立派な孝行である。

 

義理事に広げる

親に対するプレゼントだけではない。

友達の出産祝い、転職祝いなど何でもそうだ。

人に優しくしてあげられること、友への信義を守れる人間になったことを見せてやる。

人間を磨く学問をしているなら、義理事をしっかりこなして、その結果を見せてやる。

これは孝行の道であると同時に学徒の本懐でもある。

学問の結果を親に知ってもらえるのは、大変に嬉しいことだ。

 

 

孝行は身近にある

孝行をお金で買うわけではないが、お金でできる孝行も確かにある。

お金に善悪はない。使い方次第である。

お金の使い方で不孝になることもあるし、孝行になることもある。

 

身の丈に合わないプレゼントをするのは、親不孝になる。

それが負担になるのではないかと親を心配させるからだ。

変な副業でもしているのではないか、などと気を揉ませることもあるだろう。

 

孝行というものの本質をよく理解していれば、そのような心配をかけることはない。

お金でできる孝行をしっかりとできる。

 

 

 

長々と書いてきたが、言いたかったのは「孝行の実践は簡単だ」ということである。

 

親の年齢を知る、最初はこれだけで良いのだ。

何かの機会に、何歳か聞けばよい。

親とあまり親密でなかった人は、ぎくしゃくしたり、気恥ずかしかったり、色々思うところはあるかもしれない。

しかし、躊躇することはない。

孔子の教えの通りに振る舞って、何の恥じることがあろう。

 

親の年齢、たったそれだけの知識で孝行がどんどん広がる。

高度な知識はあるが、親の年齢を知らない。

大して知識はないが、親の年齢を知っている。

孔子の道からすれば、後者の方が道に近い。

私はそんな風に思っている。

 

 

弟よ、お前は今、実家でのんびりしていることと思う。

もしお前が親御さんの年齢を知らないなら、聞いておくとよい。

すでに知っているなら、いらぬお節介だけどね。

DaiGoの騒動に思うこと

時事を論ずることはあまり好きではないし、個人に対して色々意見を言いたくはない。

しかし、メンタリストDaiGoの騒動には、儒学的にも色々と思うところがあり、ひとつ文章を書いてみたいと思う。

 

「知」について思うこと

まず、事の発端となった発言。

DaiGoがホームレスの命を軽んずる発言をしたことだが、発言の細かい内容については一般人から有名人まで多くの人が指摘しているから、ここで問題にはしない。

考えるまでもなく、誤った発言である。

 

知識より見識、理想は胆識

DaiGoの本は、興味本位で何冊か読んだことがある。

勉強家らしいというイメージを持った。

ただ、考え方や生き方などは私の理想とは遠いし、彼からなにか学ぼうという気持ちはほとんどない。

特に、知識はあるのだろうけれども、道からは乖離している。

儒学でいえば、知は五常のひとつであり、善悪を判断するという重要な働きがある。

知が欠如すれば、到底道に至ることはできない。

 

しかし、その知とは単なる知識では心もとない。

善悪や価値の判断・判別のためには、知識ではなく見識でなければならない。

 

知識は、頭の機械的な働きによっていくらでも得られる。

本を読んだり、講義を聞いたり、動画を観たりすれば大抵はなんとかなる。

DaiGoのような読書家になれば、膨大な知識を持っているのだろうと思う。

しかし、それだけでは駄目なのだ。

今回のような失敗が出てくる。

 

 

見識がなければ軽薄に

「彼のように知識があれば、思っていても言ってはいけないと分かったはずだ」

といった批判を多く見たが、それはどうだろう。

知識が多かったとしても、それが偏っていたり、学んで思わざるの知であったりすれば、却って判断を誤るのではないか。

 

自分の考えが正しいか否か、言うべきか否か、そういった判断を誤る可能性は誰にでもある。

とりわけ、「知識人」などと呼ばれる人において、「まさかこの人がこの失言を」といった失言や過失が目立つ。

なぜか。知識はあっても見識がないからだ。

 

見識とは、生きた学問によって培われるものだ。

良い理想を抱いて、色々な矛盾や抵抗を味わい、経験も積み、自分なりに考え、「学んで思わざる」から「学びて思う」になり、そして見識ができてくる。

本を読むだけではそうならない。

 

見識によって善悪・価値の判断が正しくできるようになった上で、矛盾や抵抗に屈することなく実行・決断できる力を「胆力」という。

胆力だけでは間違ったほうへ突っ走る恐れがある。そうなれば、もはや胆力ではなく軽率でしかない。

それをうまく操るだけの見識が欠かせない。

見識と胆力が混然一体となったものを「胆識」という。

 

DaiGoが、思っていることを言った勇気や決断力をほめる人もいる。

しかし、これは褒められることではない。

知識をたくさん身につけ、しかし見識はなく、善悪・価値の判断が不正確な状態で突っ走っただけで、これは単なる軽挙に過ぎないと私は思う。

実際、多くの人を傷つけたのだし、社会的影響も危惧されるような騒動であったのだ。

 

知識よりも見識が大事であり、見識を以て初めて胆力が活きてくる。

彼がこれを理解していなかったことに、今回の騒動の根本原因があるように思う。

 

 

慎んで知を練ること

知識であっても見識ではなく、ましてや胆識ではなかった。

知の練り方が浅かった、ということに尽きる。

 

知を練るには、慎みが大切だ。

ツイッターなどで「年間何百冊も本を読んでいます」といった自慢をよく目にする。

しかし、自慢するようなことだろうか。

たくさんの本を読めば知識はつくが、それ以上ではない。

そのような勉強方法には不健全なものを感じるし、DaiGoの一件でますますその思いを強くした。

慎んで学ばなければ知識を出ないし、学んだ上で出てくる発言や行動にも慎みがなくなるのではないか。

 

学徒たる者は、謙虚でなければならない。

学ぶこと、実践すること、全てにおいて孔子は慎みを重んぜられた。

たくさんの本を読み、人に教えられるだけの知識を身につけても、根本に慎みがなければ破綻する。

その思いを深くした。

 

 

謝罪動画を少しだけ観て

DaiGoがスーツを着て謝罪している動画が出ていた。

少しだけ見たが、なんとなく不憫に思われて観るのをやめた。

 

道理の分からぬ人間の多さ

本心はどうか知らないが、ともかく謝ったことに「よう謝ったね」という気分を強く持った。

それ以上見ても仕方がないし、普段自信家であるDaiGoが謝るのを長々と観るのは忍びない気がした。

 

また、私が謝ってもらう問題ではない。

ああいう謝罪というのは、その発言が原因で不快になった人や心を傷つけられた人などに対して広く謝罪するものなのだろう。

私は特に不快になっていないし、謝られる筋合いではない。

 

この騒動で私が思ったのは、道理に暗い人間の多さである。

こんな道理の分からない人間がインフルエンサーという立場にある。DaiGo本人が問題であるのはもちろんだが、それを支持する人間(道理の分からない支持者)の多さに一層深刻な問題がある気がする。

社会全体が病んでいるのではないか、という印象を強く持った。

 

まあそれだけのことで、腹も立てていないし、被害も受けていないし、謝られる立場にない。

 

便乗して正義を振りかざす人々

私と同じように、謝られる筋合いではない人は大勢いるはずだ。

特に、ストレスのはけ口のように、騒動に便乗して騒ぐ人。

こういった騒動の際、当事者ではなく、関係者でもなく、普段から問題意識を持っているのでもないのに、変に義憤に駆られて、ここぞとばかりに正義を振りかざす人が結構いるように思う。

謝罪を受ける立場にもないはずだが、周りに流されて騒ぎ立てる。

このような人ほど、謝罪しようが何をしようが責め続ける傾向があるように思う。

いつまでも責め続けることの非道も分からないからだ。

 

過失と仁・不仁

今後、DaiGoがまたおかしな発言をしたら、「反省していない」という批判を受けるのは当然であるし、一層強く責められるべきだろう。

しかし、本心はどうであれ謝罪をしたのだ。

おそらく、いつまでも責め続ける人間がいくらもいるだろうが、私はそれに賛成しない。

 

降伏した相手は許すのが仁というものだ。武士の情けというものだ。

そんな甘いことではいけない、形だけの謝罪して許されるのはおかしいという人もいるだろう。

だが、私はそうは思わない。

 

過失に仁を観る

孔子は、里仁篇でこのように仰っている。

民の過ちや、各々其の党に於いてす。過ちを観て斯に仁を知る。

ここでの「民」とは「人民」ではなく、広く人を指していう。「党」とは、人ぞれぞれの性分。

つまり孔子は、「人の過失というのは、それぞれの人の性分によるものだ。だから、過失をみればその人に仁があるかどうかが分かる」と仰った。

 

孔子の人物鑑定法

人には性格・性分というものがある。残忍な性格の人もいれば、優しい性格の人もいる。

裏も表も残酷な人、

裏も表も優しい人、

裏は残酷だが表は優しい人、

裏は優しいが表は厳しい人、

残忍か優しいかだけでも、色々な人がいる。だから人物鑑定が難しいわけだが、過失を観れば根っこの部分が分かりやすい。

 

不仁ゆえの過失

例えば、今回DaiGoは人の命を軽視する発言で失敗したわけだが、これによって彼の性格が残忍酷薄であったことが分かる。

メンタリストという肩書であるから、表面上は人に優しく思われるようなテクニックもあるのだろうけれども、孔子の人物鑑定でいえば残忍酷薄である。

 

仁ゆえの過失

逆に、仁に厚いために失敗する人もいる。

例えば、許されざる悪人に対して、しっかり反省したと考えて許した。しかし、根っからの悪人であったから改心できず、また悪事を働いてしまった。

この場合、悪人も悪いが、許した人も問題だ。許すことなく処分していたら、後日の悪事もなかったはずだ。仁に厚すぎるために起こった失敗といえる。

しかし、この過失によって、許した人が仁に厚いことも分かる。

 

失敗をみるには、その人の性分から考えることが重要だ。

「罪を憎んで人を憎まず」というのも、結局はそういうことだろうと思う。

 

どちらも中庸ではないが

このように、残忍であるために失敗する人もあれば、仁に厚いために失敗する人もいる。

どちらも中庸を得ていないから、良いとはいえない。

中庸を得るのは難しい。どちらの失敗も大いにあり得る、ならばどちらがマシといえるか。

当然後者である。失敗しているには違いないが、後者には仁がある。

 

不仁者は、不仁によって多くの害悪をもたらす可能性がある。

仁者は、仁に厚くて失敗することもあるが、それ以上に社会にとって有益なことが多い。

 

許さず責める不仁

今回の失言から、DaiGoの不仁が浮き彫りになった。それを責めた人も大勢いる。

失言をしたのだし、それが本人の不仁に因るものであるから、責められるのは仕方ない。

DaiGoは、本心はどうあれ謝罪した。それを許すかどうか。

許さずに責め続けるならば、それは仁とはいえない。一旦降伏した相手を徹底的に責めるならば、それは不仁である。

 

謝罪を受ける立場にない者が、謝罪した者を許さずに責め続けるのだから、「ここまで責める」という基準もないはずだ。

有罪判決を受けた人でさえ刑期何年と区切りがあるのに、ひとつの失言に対してそういう区切りもなく責める。

責めが終わるのは、自分が飽きた時、責めるべき別の対象が見つかった時、大多数の人が責めるのを辞めた時、といったところか。

反論できない者に対し、信念のない責めを続けるのだ。そんなものは不仁である。

私は、そういう責めをする人が嫌いだ。

 

鄭伯の明

鄭の荘公が許を攻めたときのような、情のある見方をしても良いのではないか。

隠公の十一年、諸侯としての法を守らなかったために鄭は許を討った。許の国君は衛に亡命し、許は降伏した。

荘公は許し、亡命した国君の弟を立て、徳のある人物に監督させて許国の復興を助けた。

君子は、荘公の処置を「礼にかなったもの」と称えた。

 

悪いことをした人は責められるべきであるし、謝罪する必要もある。しかし、責めるのはここまでにしておき、あとは見守っておけば良いのではないか。

許国の場合、討伐の原因を作った国君が亡命し、許国に禍はなくなった。ほかにも禍の種はあるかもしれないが、ともかく討伐の原因は排除できた。だから鄭伯は許をそれ以上責めなかった。

 

DaiGoにしても、今回の騒動の原因であった「ホームレスに対する失言」を謝罪し、認識を改めると言ったのだ。

彼の性分には、ほかにも禍の種があるかもしれないが、ともかく今回においては責められるべきところは、一先ず片付いたわけだ。この上さらに責めるのは不仁に思えるがどうか。

 

今後、今回のような問題が起こらなければ、それは今回の加害者も、被害者も、傍観者も、批判者も、全員にとって幸である。

再び今回のような問題が起こったとき、再び不幸を被る人が出る。けれども、許しを生んだ仁そのものに罪はない。

 

謝罪したのだから一先ずこれでよい、武士の情けであると思えること、そこに仁があることが尊い

そのように考えず、引き続き大勢で一人を責め続けるならば、それは不仁である。

 

DaiGoを責める人の多くは、それぞれが自分なりに正義感を抱いているだろう。社会のため、という感じを抱いている人も多かろう。社会のためというなら、ぜひ許すが良い。

苛政は虎よりも猛しという。政治だけではなく、厳しすぎる社会になるのはだれも望まないだろう。

失敗が許されない不仁に満ちた社会は、あまりにも厳しい。それよりも、各々が小さな仁を為せる社会、仁の多い社会の方が良いに違いない。 

今後もDaiGoひとりを責め続けて大勢が小さな不仁を犯すよりも、ここまでと考えて許し、これまで責めていた大勢が小さな仁を為すほうが余程良い。

 

世の中から不仁を減らそう、仁を増やそうというのが、孔子の志である。

DaiGoひとりの不仁を許さずに、大勢が不仁に陥るか。

DaiGoひとりの不仁を許して、大勢が仁を得るか。

私はDaiGoを許す方が、道に適っていると思う。

悪衣悪食を恥ずる恥

悪衣は粗末な衣服。

悪食は粗末な食べ物。

そういうものを恥に思うのは、恥である。

ややこしい表現だが、恥に思うこと自体、恥である。

 

 

孔子曰く

論語里仁篇に曰く、

 

士、道に志して、悪衣悪食を恥ずる者は、未だ与に議するに足らざるなり

 

孔子は、道に志しながら悪衣悪食を恥ずる人間を嫌った。

そんな人間は、ともに語るに足らぬと仰った。

 

士とは

士は事であり、事に任ずるを士という。

学問や道徳を身につけ、そこで初めて出仕する人を士という。

士として立った以上は、世のため人のために有為な人材であらねばならない。

そのためには立派な人間、良い人間であらねばならない。

当然、学問道徳に一層の磨きをかける必要がある。

 

この志があるため、士といわれる立場の人は道徳を重んじる。

実際に道徳的であるかどうかに関係なく、道徳を重んじなければならないという道理は分かっているから、重んじる。

政治家としての立場にありながら、道徳を真っ向から否定する人間はいない。

 

偽物の多きこと

ところが、真に道徳的な人は得難い。

表面的には道徳を大切にするが、腹の底から、誠を以て、道徳を重んじる人は極めて少ない。

 

口では何とでもいえる。

腹の底でどうか、行動がどうか、これが分からなければ安心はできない。

安心できない、といっても不安がる必要もない。

道に志しながら道を踏みにじる偽物は、簡単に見抜けるからだ。

 

悪衣悪食を恥ずるかどうか、である。

悪衣悪食を恥ずるを人間は、偽物と断じて良い。

偽物であるから、共に語るに足らぬと孔子も仰った。

 

悪衣悪食を恥ずるは、それ自体が恥ずべきことである。

この辺から考えていくと、悪衣悪食を恥ずることが何故に恥であるかがよくわかる。

 

 悪衣を恥ずる恥

悪衣を恥ずるは恥である。

 

悪衣を恥ずるとはどういうことか。

例えば、大勢の中に自分がいる。

他の人間はオーダーメイドのこだわり抜いた、高価なスーツ。

自分だけ、既製品の安物スーツ。

それで集合写真を撮るとか、パーティをやるとか、そういった場合に自分の悪衣を恥じる気持ちがあれば、それは恥である。

 

なぜ、悪衣を恥じるが恥なのか。

それは、人間の価値を人間そのものではなく、外部に見出しているからだ。

この価値観がゼロであれば、他人は美衣、自分は悪衣であっても、何ら恥じる気持ちは起こらない。

自分は悪衣だが恥ずかしくない、といった気持ちさえ起こらない。

つまり中庸である。

 

恥ずべき場合に恥じなければ中庸といえない。

恥ずべきでない場合に恥じるのも、中庸といえない。

恥ずべきでない場合に恥じないのは、中庸いえる。

 

大勢は美衣、自分は悪衣。

これは何ら恥ずべきことではない。

そこで恥じないのは中庸である。

 

なぜ恥じる気持ちが一切ないか。

道に志しているからである。

衣服のことなど、道徳に比べれば取るに足りないことを知っているからである。

道徳に安住し、装飾に恬淡としているからである。

 

真に恥ずべきは、道徳に悖ることである。

衣服が悪いことなど、それに比べれば恥でも何でもない。

 

道徳に安住していれば、悪衣を恥じる気持ちなど起こるはずがない。

それを恥じるならば、道徳に安住していない証拠である。

道に志し、道徳が大切だと口では言いながら、道徳に安住せず悪衣を恥じている。

エセ君子である。

これが恥でなくて何であろう。

 

悪衣を恥ずるは恥とは、このような意味である。

  

子路の道心

悪衣を恥じぬ人物の筆頭は、論語中ではまず子路である。

 

子路は悪衣を恥じぬ人であった。

破れた縕袍、つまり破れて綿が飛び出た綿入れを着ていた。

その服装で、狐裘を着た人々に交わって、何ら恥じるところがなかった。

狐裘とは、キツネの脇の下の毛を集めて作った皮衣で、非常に高価なものである。

高いものになると、ひとつで千金になるほどの美衣であった。

 

子路は、破れた綿入れを着て、狐裘を着た人のとなりに立っても、全く平気だった。

狐裘を着た人間を偉いとも思わない。

破れた綿入れを着た自分を、恥じる気持ちもない。

 

なぜ、子路は平気であったのか。

道を信じる心が厚かったからだ。

敬愛する孔子の道を心の底から信じていたからだ。

悪衣がどうのこうのといった小さな問題など、子路の道心からすれば全く問題にならなかった。

 

子路の道心からも、悪衣を恥ずるは恥といえる。

悪衣を恥ずるは、道を信じる心の薄さに通じるからだ。

道に志しながら、悪衣を恥じる。

道を疑っているのだ。

孔子の道を標榜し、実際には孔子の道を疑っている。

これも、恥でなくて何であろう。

 

孔子は、お弟子のなかでも子路を特に信頼された。

悪衣を恥じぬ道心を信頼したのである。

志を持ち、なおかつ悪衣を恥じぬ子路は、共に道を語るに足る。

そのように考えられたものと思う。

  

一狐裘三十年

斉の宰相であった晏子も、悪衣を恥じない人だった。

晏子春秋』に、「一狐裘三十年」という言葉がある。

晏子の人となりが知れる、良い言葉だ。

 

一狐裘とは、たったひとつの皮衣。

晏子は、三十年間にわたってひとつの狐裘を着続けた。

当時、斉は大国である。

その斉国の宰相の立場にあれば、富も得られただろうが、晏子は無欲の人であった。

だから、一狐裘三十年であった。

 

狐裘は高価な美衣である。

しかし、いくら良い服でも、着回すでもなく一着だけを着続ければ、当然くたびれる。

三十年間も着続ければ、ぼろになる。

それでも晏子は着続けた。

悪衣を恥じなかったからである。

 

やはり晏子も、道徳に安住した人であった。

当時、斉国は王道ではなく覇道を採った。

孔子は王道を重んじたから、晏子とは相容れない関係にある。

 

しかし、孔子晏子は認め合っていた。

孔子晏子を評して、こう仰った。

 

晏子は善く人と交わった。

そして、交われば交わるほど、人は晏子を尊敬した。」

 

善く人と交わった。

一狐裘三十年の悪衣を恥じる気持ちがあれば、人と善く交わることはできない。

また、そんな小さな人物であったならば、交わる人が尊敬するはずもない。

 

孔子は、一狐裘三十年の晏子に対し「ともに語るに足る」の気持ちを抱いていたのだろう。

 

中国ドラマの『孔子春秋』は良いドラマだ。

史実でない内容も多いが、大意をよく掴んでいる。

孔子晏子の交わりも、しっかりと描かれている。

 

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悪食を恥ずる恥

次に、なぜ悪食を恥ずることが恥であるのか。

悪衣を恥ずる恥が理解できれば、悪食についても理解できると思う。

 

例えば、自分が粗末なものを食べていた。

そこへ、美食を好む金持ちが現れた。

この時、自分の悪食を恥じる気持ちが起こるならば、それは恥である。

 

なぜか。

悪衣を恥ずると同じである。

道徳を重んじるならば、飲食の問題は取るに足りない。

 

もちろん、誰でも美味しいものが好きだし、善いものだ。

しかし、悪食が悪いのではない。

恥じるべきでないものを恥じるのは中庸といえないし、道心が薄い。

道に志しながら道心が薄く、悪食を恥じる。

このようなエセ君子的態度が恥なのである。

 

疏水の味を知るべし

幕末、8年間で20万両を稼ぎ出し、空前絶後の藩政改革を成し遂げた山田方谷先生も、悪衣悪食を恥じぬ人であった。

方谷先生の漢詩に、こんなものがある。

 

富貴浮雲

一朝晴又曇

為官得聖訣

疏水味方甘

 

富貴は浮雲に似たり

一朝にして晴れまた曇る

官となりて聖訣を得たり

疏水の味をまさに甘しとすべし

 

富や地位などは、浮雲のようなものだ。

ほんの短い間に、晴れたり、曇ったり(栄華を極めてもむなしいものだ)。

政治の世界に入って、聖人の道を知った。

水や野菜などの淡泊な味のおいしさである(富貴から遠ざかった普通の生活の豊かさを知った)。

 

疏水とは、粗末で味わいの淡泊であること。水や野菜。

酒や肉などを用いた美食とは対極にある。

その味わいを知り、満足すること。

これぞ聖人の道であると仰った。

 

道徳に安住しているから、悪食のおいしさが分かり、恥じる気持ちなど全く起こらない。

 

公田先生のはなし

敬愛する公田連太郎先生の話。

公田先生は、生涯、清貧を貫いた人であった。

 

晩年のある日、知人が公田先生の書斎を訪ねた。

当時、先生は奥さんを亡くされていたから、一人で暮らし、自炊しておられた。

先生の書斎の机にそばには、一つの飯盒が置いてあった。

先生は、一日一合の玄米を、その飯盒で炊いて召し上がった。

 

まさに顔回の「一箪の食、一瓢の飲」そのものである。

悪食を恥じなかった先生の態度がよくわかる。

 

人をもてなす場合も同様であった。

先生ご自身が悪食を恥じないのだから、それを人に勧めても恥じるところがない。

公田先生は、人をもてなすにも全くこだわりがなかった。

 

人から訪問を受けた時、お湯が沸いていればお茶を出す。

お菓子があればお菓子を出す。

お湯が沸いていなければ、お菓子がなければ、それまでである。

 

公田先生は多くの人に親しまれた。

ついつい長居してしまう人も多かったらしい。

長居するうちに、食事の時間がくることもある。

しかし、先生のご自宅には大した食べ物がない。

先生は、よくこう仰ったという。

 

「パンくらいならありますから、食べていらっしゃい」

 

私が公田先生に心酔するのは、易経講話で教えを受けたことだけではなく、先生の生活態度、顔回のような人間の魅力に心酔しているのである。

 

基準は志の有無

最後に、この章句の注意点を述べたい。

この章句には、悪衣悪食を恥じる人間はともに語るに足りない、とある。

悪衣悪食を恥じる人間を、蔑むような趣がある。

 

注意すべきは、「道に志して」の前提である。

道に志しておきながら、悪衣悪食を恥じることを蔑むのである。

口だけの人間であること、道徳を隠れ蓑にしていること、つまりエセ君子であることが恥なのだ。

 

世の中には、道に志していない人もたくさんいる。

大多数はそうである。

そのような人が、悪衣を恥じても、悪食を恥じても、それはごく当たり前のことである。

何ら蔑むべきところはない。

 

昔の私は、誰かれ構わず、悪衣悪食を恥じるとは腑抜けた奴だと、見下す気分があった。

度量が狭く、余裕のない人間だったと思う。

孔子の言葉で目が覚めた。

  

総括

まだまだ書きたい気もしたが、これ以上書いても、同じ内容を様々に言い換えるだけになるだろう。

また、4000文字になろうとしている。

読む人には退屈であろうから、この辺でやめておく。

 

ともかく、悪衣悪食を恥じることはないし、美衣美食の人間に萎縮することもない。

道徳に安住すれば、そうならなければおかしいのだ。

 

道に志し、悪衣悪食を恥じぬ人間は、語るに足る。信用できる。

しかし、実際には偽物が多く、本物は得難い。

そういう得難い人間との付き合いを、大事にしていかねばならない。